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1998

バンドやろうぜ!

The 5.6.7.8'sやSUPER SNAZZに憧れて、ガールズバンドをやってみることにしました。Fenderの中古のベースを買って、自分がベースボーカル、妹がギターでした。ドラムにバンド経験者のベテランを誘いました。Nirvernaのアルバム「Incesticide」に入っていたヴァセリンズ(The Vaselines)のカバー曲「Son of a Gun」(Nirvernaバージョン)とKenickieの「Punka」(パンク女の意)という曲を練習しました。下北沢のスタジオで練習してたら隣のスタジオにデラウエアがいて、「ずっと3コードだったね」と言われました。「Son of a Gun」は3コードだけで簡単でした。私がブランキー・ジェット・シティの「SWEET DAYS」がやりたい!と言ったけど、妹がギターソロのパートができないので断念しました。結局スタジオ練習は2回だけでした。ドラムの子はCAの仕事をしていて忙しかったのでたまにしか会いませんでしたが、数年後に武蔵境のライブハウスSTATTOで会いました。なぜかベル・アンド・セバスチャンのメンバーと一緒に来ていたので写真を撮ってもらいました。

それから、G.LOVE&SPECIAL SAUCEやJON SPENCER BLUES EXPLOSIONのブルースっぽいロックもよく聞いていました。ギターウルフがフジロックに出演したときに、ベックと一緒にジョン・スペンサーが来ていて、ギターウルフのライブに興奮して話しかけてきたけど、セイジさんは知らない外人に話しかけられたと思って無視した、という話を聞いてさすがレジェンドロックンローラー!と思いました。

あと、神戸でKING BROTHERSのライブを見て、ジョン・スペンサーみたいでかっこいいな、と思いました。その頃の神戸は1995年の阪神大震災の復興真っ只中でしたが、ぶっ壊れた街で誕生したバンドはすごくパワフルで圧倒されました。

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YON2

自分で描いたイラストをシールにプリントして、まわりに配っていたら、演劇の舞台やクラブイベントのチラシを作って欲しいと頼まれるようになりました。小泉今日子さんのキティちゃんとのコラボ(?)アルバムジャケット「オトコのコ オンナのコ」(1996)に影響受けて「ペティ」ちゃんという悪魔のキャラクターをつくり、自分の名前の表記を「YON2」にしました。

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それから、オリジナルプリント「Tシャツくん」を買ってバンドTシャツやイラストをプリントしたTシャツを作って東京ビッグサイトのデザインフェスタに出展しました。でもほとんど売れなくて在庫だけがたくさん残りました。

1年半ほどアルバイトした会社を辞めて、桑沢の求人掲示板で探した小さな広告代理店でデザイナーのアルバイトをすることにしました。週4日の勤務で他にイラストの仕事もしたいな、と思っていました。原宿のヴィラ・ローザというヴィンテージマンションの9階で、昔、女優の秋吉久美子さんが住んでいたと聞きました。住居用フロアだったのでたくさん部屋があり、個室でラジオ「J-wave」を聞きながら仕事していました。ラジオでは鮮烈なデビューをした宇多田ヒカルの「Automatic」がずっと流れていました。夜はジョージ・ウィリアムズとマイク・ロジャースのInterFMのラジオ「チャンネルG」が好きでいつも聞いていました。

カフェブームのはじまり

妹が表参道のエディトリアルデザインの会社で働くことになりました。おしゃれな会社でガラス越しに見えるオフィスにはデザイン集団groovisionsのチャッピーがありました。近くにあったアジアンカフェ「デザートカンパニー」やフレンチカフェ「オーバカナル」で一緒に夜ご飯を食べました。この頃から、中目黒「オーガニックカフェ」などおしゃれなカフェができはじめていました。なぜかDJブースがあって「relax」や「barfout!」などの雑誌や、フリーペーパーの「dictionary」が置いてありました。音楽はだいたいテイ・トウワが流れていました。Deee-Lite脱退後もNOKKO「I Will Catch U.」(1993)の楽曲提供などで活躍していて、テクノやR&Bなどいろいろなジャンルをミックスした新しい音楽がとてもおしゃれで人気でした。

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