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文鮮明先生の早稲田大学留学と下関

文鮮明先生が初めて日本の土を踏まれたのは1941年4月1日、関釜連絡船で韓国釜山から下関の埠頭に着かれた。現在海峡ゆめタワーのすぐ近くの埠頭だ。早稲田大学附属早稻田高等工学校電気工学科に留学する為であった。また太平洋戦争勃発の為、卒業式は半年繰り上げて行われ、2年半の日本留学を終えられてまた、下関から韓国に船で帰国された。故に文鮮明先生にとって下関は忘れることのできない土地となった。当時はまだ韓国は日本による韓国併合(1905年〜1945年)の為、植民地支配による統治下であり、あらゆる面において国を失った民族の悲哀を感じられた時期であったに違いない。

文鮮明先生は1920年生まれ、現在の北朝鮮の平安北道定州でお生まれになった。先生の少年時代は活発で探究心旺盛で答えを得るまでとことん追求していった、負けず嫌いだった。またとても情深く、貧しい人を見れば見捨てることができず、とことん助けてあげた。自然がとても好きで野山、川を駆け巡り自然と戯れて少年時代を過ごされた。文少年が育った家には家訓が有り、誰でも文家に立ち寄った人には食事を振る舞うという家訓であった。日本統治の難を逃れて満州に行く途中立ち寄る人、貧しくて食を求める人でいつも文家はごった返していた。お母さんはそれらの人々に食事をもてなすのにいつも忙しかった。旅人に食事をもてなすのが遅くなると、お爺さんが自分の食膳を抱えて旅人に食べさせたという。

物心がつく頃になると、将来何になるのか熱心に考え始められた。自然を観察し研究することか好きだったので科学者になろうと一時は考えられた。しかし科学者になってノーベル賞を取ったとしても、ぼろを身にまとい、飢えた人達の涙を拭い去る事は出来ないと思われた。そして人々に幸福をもたらす人になろうと決心された。その事を真剣に考えると様々な人生に疑問がよぎってきた。私は誰なのか。どこから来たのか。人生の目的は何か。人は死ねばどうなるのか。霊界はあるのか。神様が全能のお方であるとすればなぜ世の中の悲しみを見捨てておられるのか。なぜ人は憎しみあって戦争をするのかなど。

そして文少年が15歳の年になった復活祭(イースター)の日に近くの山で必死に祈っているとイエス様が現れ、「苦しんでいる人類のゆえに、神はあまりにも悲しんでおられます。地上で天の御旨に対する特別な使命を果たしなさい」と告げられた。イエス様がなそうとされた人類救済の使命をあなたが私に代わって成し遂げてほしいという召命の瞬間だった。文少年は使命の大きさに私は出来ませんと何度か断るも、イエス様があなたしかいないと説得された。この日を境に文少年の人生は一変し、イエス様から託された使命をどの様にして成し遂げるか寝ても覚めても日夜考え、祈る様になった。

そして文青年が21歳になった時、人類救済のための真理は科学的根拠に基づかなければならないと考え日本の早稲田大学に留学される事を決断された。2年半にわたる日本の早稲田大学留学は電気工学の勉強のみならず、宇宙と人生の根本原理の解明、上から下まで様々な苦労と経験をして、あらゆる人の心を理解してゆく事だった。文青年の机の上にはいつも韓国語、日本語、英語の聖書が置かれ、何度も読み返され、文字が見えなくなるほど線がいっぱい引かれていた。家からの仕送りは貧しい学生にあげて、自らは働いて学費を稼がれた。川崎鐵工所や造船所など色々なところで肉体労働もされて労働者の友ともなった。

文鮮明先生が日本に留学中2つの忘れられない思い出があった。1つは下宿のおばさんが日本の学生と韓国留学生である文青年に分け隔てなく平等にお餅など食べ物を分けてくれた事。2つ目はリヤカーで荷物を運ぶ仕事を請け負った時、仕事を頼んだ人が賃金を払う時約束した賃金に上乗せして余計に払ってくれた時の嬉しさが忘れられなかったという。

太平洋戦争勃発のため、卒業予定を半年繰り上げて卒業される事になった。帰国にあたって韓国の家族にいついつの日にこの船に乗って帰ると予め電報を打って知らせておかれた。ところが下関に着いて予約したその船に乗ろうとすると、足が地について離れなかった。これは何かの天の知らせだと悟って、予約した船には乗船せず引き返して富士山に登られた。ところが文鮮明先生が乗船する予定だった崑崙丸は下関港から韓国釜山港に向けて出港して3時間後、米潜水艦ワーフー号の発射した魚雷により撃沈され、655人中、583人の死亡者を出す、関釜連絡船史上、最大の悲劇が起こった。今年はその日から80周年にあたり、関係者が集まって下関市で慰霊祭が行われた。崑崙丸が米潜水艦によって撃沈されたというニュースを故郷で聞かれた文鮮明先生のお母さんは気が狂った様に息子の安否を尋ねて裸足で8キロの道を走って定州の街まで走って行かれた。お母さんの足の裏には太い棘が刺さっていた事も気づかれなかった。

文鮮明先生はイースターに日にイエス様が出逢われてから9年間、宇宙と人生の根本原理の解明に没頭され、遂に原理を解明された。文鮮明先生は韓国に帰国され、まもなく終戦を迎えて韓国は日本から独立した。先生の年は25歳、解明された「統一原理」の伝播と世界宣教と人類の救済に向けて公生涯を出発された。

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