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大事にするということ

花を買うことは、とても素敵なことだと思っていた。

花瓶に飾って、部屋を彩る。いいじゃん、とっても素敵。わたしが持っている小さな花瓶に入るくらいのお花は、どれもお手ごろ価格だし。これを趣味にしようとすら考えていた。

先日、ずっと行きたかったお花屋さんで、初めてバラを買った。

毎朝水を入れ替えて、横を通る度に立ち止まっては眺めて、毎日毎日、かわいいねと声をかけた。わたしのバラちゃんは、本当にかわいかった。大事に大事にしたけど、やっぱり数日で枯れてしまった。だからわたしは、新しいバラを買いに行った。

新しいバラ。

次に行ったお花屋さんにも、またたくさんの種類のバラがあった。でも、おかしなことに、欲しいバラがひとつもなかった。わたしはお店のバラを見て、すべてをあのバラちゃんと比べた。
(このバラはバラちゃんに比べて赤すぎるなあ、こんなに大人っぽい感じはピンと来ない)
(このバラはスプレー咲きだからなあ、バラちゃんはひとりでもすごくきれいだったもん)
(これはピンクすぎる、バラちゃんはもっと淡いかわいい色をしてたのに…)
納得がいかなかったけど、まあこれかなと思うバラを買った。一輪に拘っていたけど、スプレー咲きの子たちも、一緒に暮らしてみたらなにか変わるかもと、期待したのだと思う。

買った当初はすごくきれいで、こんなのもありだなと上機嫌になった。家に帰って花瓶に入れて写真を撮った。
でも、スプレー咲きの子たちにはあまり構ってあげられなかった。わたしは遠征で家を空けて、水を代えなかった。かわいいねって言わなかった。
数日後、家に帰ってくると、当然、全員下を向いて、黒っぽくなって、カピカピになって、あっけなく姿を変えていた。ママが「この子たち、もうそろそろ、いいね?」と言って、その子たちを花瓶から抜き取って、ゴミ箱に入れようとした。「待って」って咄嗟に言った。「かわいいから、そのままにしておいて」って言うと、ママは「じゃあ、どうするの」って言った。じゃあ、どうするの。

わたしはその瞬間、自分が犯したとんでもない過ちを自覚した。

そういえばわたし、あのバラちゃんのこと、捨てた。そっか。もうあのバラちゃんには、会えないんだ。大事に思っていたはずのお花を、捨てた?

涙が出て、そのままどうにも止まらなくなった。わたしは確かに、あのバラちゃんを捨てた。名残惜しかったけど、枯れたからって、そういうものだと、当たり前のように捨てた。もう会えなくなるなんて考えずに、捨てた。ありがとうって言いながら、捨てた。また会いたくなるなんて思わなかった。唯一無二という言葉を本当の意味で理解していなくて、代わりなんていくらでもあると思っていた。バラちゃんを大事に思っていながらも、バラなんて全部同じで全部かわいいと思っていた。またすぐに別のかわいいバラが見つかるだろうと油断していた。でも、わたしにはあのバラちゃんじゃなきゃダメだった。すごくかわいく咲いてくれていたことに、わたしは今更気づいた。柔らかいトゲで健気に着飾っていた、おませさんなバラちゃん。トゲをもっと触っていちいち怒られておけばよかった。バラちゃんの淡いピンク色は優しくて素敵でかっこいいよって言えずに、お別れした。

でも、どうしようもなかった。花屋で売られている花と、人間の運命だった。みるみる枯れていくバラちゃんに、わたしはなにもできなかった。かわいいねと言うだけで、水を代えるだけでなにもできなかった。わたしが殺したようなものだ。わたしが、あのバラちゃんを殺した。

わたしは今、「花屋で買った花が枯れただけで泣いている人間」だ。馬鹿馬鹿しい。花は当然枯れるもので、いままでも何度も花が枯れるのを見てきた。でも、もらった花束の中の花たちと、わたしが遠い土地まで足を運んで出会った、世界でたったひとつしかないバラちゃんとは、話が違った。ああ、五千のバラと一輪のバラって、こういうことだったのか。文字で見るより、何百倍も痛烈だ。涙が止まらない。本当に本当に、どうしたらいいかわからない。なんだか、涙が止まらない。お花屋さんで茎が切られたのを確かに見たのに。あの頃から決まっていた事だったのに。わたしはあの時に、あのバラちゃんが、こんなに大事な存在になると思っていなかった。大事にするとはどういうことか、何も分かっていなかった。失ってから気づく、愚かな人間だった。バラちゃんにもう一度会いたい。サンタさんに、あのバラちゃんがほしいと駄々をこねて縋り付きたい。

花を買うこと。確かに世間的に見たらとても素敵な趣味だと思う。実際にこの世にはお花屋さんがたくさんあって、毎日いろんなお花が人々の手に渡る。だけど、わたしはもうお花を買えないと思う。もうお花なんて買いたくない。なんて残酷な行為なんだとさえ思う。花を買うという行為は、わたしの中で「花を大事にすること」と同義ではなかった。体をちょんぎって、花瓶に閉じ込めて、枯れゆく様を見て、それを美しいと言う人間は、おぞましい生き物だと思った。わたしはバラちゃんになんてことをしたのだろう。わたしという人間は、かわいいかわいいと言って大事に思っていたバラちゃんを見殺しにする人間だった。それがすごくすごくショックだった。でも、花を買うことが悪いことだと言いたいんじゃない。わたしには、必ず訪れる終わりに耐える強さと、バラちゃんとの今を大事にする力がなかったのだ。大事にするって、なんて難しいんだろう。

バラちゃんはわたしにとって、この世で唯一無二の存在だったこと。花を買うという行為について。
「バラちゃんと一緒に生きてみることで、大事にするとはどういうことなのか、学んでみようと思います。」なんて呑気に言っていたわたしは2週間後、バラちゃんを捨てることで、それを本当の意味で学ぶこととなった。皮肉が痛くて、痛くてたまらない。

時間が経てばあのバラちゃんのことをいい思い出として心にしまって、ほかの新しいバラを愛でることができるんだろうか。でも、愛するって、大事にするって、そんな生半可なものじゃないと思った。もっと大事(おおごと)だと思った。


以前わたしはこんなツイートをした。

花を摘んで、花瓶に入れること。枯れたら、捨てること。花という存在は当たり前のようにそんな存在として認識されている。わたしには、花を摘んで花を殺した前科がある。それを踏まえてこれを見たとき、戦慄した。わたしには、そういう"素質"があるのだと。


大事にしたいのは僕らの今

大事にするってなんだろう。
FOLLOWを通してずっと考えてきた。毎回noteを書いて考え続けても、結論に至らなかった。わたしは何度もライブに足を運んで、必死にそれを探していた。自身を"枯れない花"と謳う彼に、わたしは何ができるだろうか。


大事にするということは、ただ単に身近に置くことじゃない。土から掘り出して、花瓶に押し込めて、無理矢理そばにいてもらうことじゃない。それでは、ずっと一緒にはいられない。あたたかい光に照らされて、地面にしっかりと根を張ってきれいに咲く花に、わたしが会いに行くんだ。どんなに遠くても、わたしの足で、わたしの羽で、会いに行きたい。わたしの生きるべき場所に帰る時も、花を信じて、また会えると信じて、凛々しく別れたい。花はこれ以上ないほどにつよくやさしく咲いてくれているのに、わたしが風や虫や病気を無駄に杞憂して泣いたりしたら、花を困らせてしまう。せっかく元気に送り出してくれたのに、メソメソ泣いたりしたら、せっかくの花の愛を蔑ろにしたことになる。花はわたしを信じて送り出してくれたのだから、わたしも花を信じて、元気よく手を振ろうと思う。

大事にするということは、信じることだと思う。

FOLLOWを通して、ミンギュが"私"のことを大事にしてくれていることがすごく伝わってきた。それは、ミンギュが"私"を信じてくれていたから。また必ず戻ってきますと、力強く約束してくれた。"私"がまた会いにくると、信じてくれていた。わたしは花の、彼の、ミンギュの愛を信じていたい。それは、わたし自身を信じることにも繋がる。"私"の愛と情熱が癒しだと言ってくれた彼の言葉を、まっすぐ信じようと思う。彼は、わたしが彼に会いに行くのにかけた愛と情熱を、確かに受け取ってくれていた。わたしの愛と情熱を邪険にせず、真摯に受け取ってくれていた。なんて大きな人なんだろう。
何度も風に吹かれて、雨に打たれて、踏みつけられてきた花は、何事も無かったかのようにつよくきれいに咲いて、「そのままできみはぼくのすべて」と歌ってくれた。厳しい世界で生き抜くには、そのままでは居られなかったであろうきみが。たくさん苦労して、克己してきたであろうきみが。天の川の光を目にいっぱいに映して、そう愛おしそうに歌っていた。こんな大きな愛があるだろうか。

ステージであんなに鮮やかに咲いていた花を、摘み取ることなど、わたしにはできない。大事にするということは、自分のものにすることじゃない。見えないものを、信じること。


花を摘まずに、寄り添って写真を撮る彼が好きだ。
わたしもそんな風に生きていたい。

大事にしたいのは、花と生きる今。

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