ごはん食べたよ

ごはんはちゃんと食べた?
なんで聞くんだろって思ってた。
ごはん?別にいらないし、ミンギュが食べてればわたしはそれでいいのに。

元々、ごはんにはあんまり興味がない。わたしにとっては生命維持の手段でしかないし、食べたいから食べる、なんて積極性はない。だいたい、食べないのが1番楽じゃん。おかげで、お金は全然持ってないくせにエンゲル係数は超低い。この後のことよりいまの気分を最優先にしてしまうわたしはその1日を惰性で過ごす。わたしの1日に、これを食べなきゃいけないくらいの労力を使う価値があるのかな。動かなければ食べなくて済むという、なんとも引き算的な思考が頭をぐるぐる巡る。生きるのが下手、と言うにはあまりにも大袈裟な、ただの怠惰。

これはそんなわたしに起こった変化と葛藤と、これからの話。

【起】魔法のもしもしカード

まずは、急に思い立っていつかのもしもしカードを引っ張り出した時のこと。
本当になんとなくだった。もったいなくて、今まであんなにずっと温め続けていたのに。今思えば、さながら啓示だった。
いますぐ電話してっていつも言われてるし。
どこにいてもすぐ来てくれて、どんなときでも味方になってくれるんでしょ。
そう思いながら、裏のQRコードを開いて数字を打ち込んだ。

ミンギュはいつもの明朗ハスキーボイスで
もしもし!ミンギュだよ!したあと、

「ごはんはちゃんと食べた?
(中略)
ぼくもいっぱいごはんを食べて、
カラットちゃんを笑顔にするためにがんばってるからね」

って言った。ごはん。


ミンギュはすごくやさしい。
そのやさしさは、声色だけのせいじゃない。
わたしにとって、ミンギュがいっぱいごはんを食べることは、とびきりのやさしさだった。

やさしさってなんだろう。難しくて、わたしにはまだ全然わからない。
わたしがしてあげたことを相手がしてくれたら、わたしは嬉しい。わたしがあえてしなかったことをされたら、わたしは悲しい。単純なわたしにとって、やさしさってこんな感じだ。
ミンギュがいっぱい食べていると言ってくれて、わたしはすごく嬉しかった。逆にミンギュが食べていないと言ったら、きっとわたしは悲しい。それがカラットのためであってもミンギュのためであっても、いずれにせよその事実に心がちくっとする。

それなら、ミンギュがしてくれていることを、わたしもしたい。わたしもごはんをいっぱい食べて、ミンギュの笑顔のためにがんばりたい。バカだから、”私”がごはんをいっぱい食べたら、ミンギュを笑顔にできるんだと思った。"私"がごはんを食べなかったら、ミンギュが悲しむんだ。じゃあわたしも、ごはんをいっぱい食べたい。

【承】メタモルフォーゼ

それ以降、わたしにとってごはんを食べることは、世にいう「推し活」になった。手段じゃなくて目的になった。時間が無い時でも、食べないことを選択せずに、ちゃんと買うようになった。ミンギュが日本のコンビニ商品の中で特に好きって言ってたコーンパン。ミンギュが体づくりのために食べているサラダチキン。おにぎりはウィラで食べていたツナを選ぶ。ミンギュが来日したとき飲んでいたからだすこやか茶は、146円。プロテイン入りのドリンクは意外と美味しい。
出かける時には必ず、お気に入りのトレカたちが入ったクロミちゃんのコレクトブックを持ち歩く。ごはん屋さんに行ったら、ミンギュのトレカと必ず写真を撮る。おたくの友達とじゃなくても撮る。「何してんの?」「また撮るの?」「先食べていい?」よく言われる。確かに。言われてみれば謎の儀式。
でも、いいの。ミンギュにごはん食べたことを自慢する時間なの。みて!ごはん食べたよ!ってしたいの。わたしのなかで、今日のごはんをミンギュと結びつけたい。楽しい気持ちになるから美味しいのか、美味しいから楽しい気持ちになるのか。どっちが先でも、美味しく楽しく食べていることには変わりないでしょ。

ミンギュのことを考えればごはんが楽しかった。家にいたらひたすら食べないわたしが、キッチンに立つようにもなった。特にスプを見ると、必ずと言っていいほどキムチチャーハンを作ってしまう。今日はあれ作ってみようかな。ミンギュが行ってたこのお店、行きたいな。こんな風に、わたしが嫌うごはんも概念ミンギュになって、ごきげん行事に早変わり。ミンギュを追っかけて、色んな都市に出向くようになって、ご当地のごはんも食べるようになった。ご当地のごはんは、すごく美味しい。思い出と一緒にお腹も満たされた。ミンギュが食べたごはんなら、食べたいと思うようになった。ミンギュの好きなごはんなら、喉を通った。ラーメン屋さんなんて入ったことなかった。油そば、超重たい食べ物。すごく美味しい。ビールと一緒に食べたら、ちょっと太った。太ったから、走って、筋トレをした。

こういう文脈で、ミンギュはわたしを健康にした。心だけじゃなくて、体も。
スプでミンギュが言っていた「運動すれば沢山食べられる」の足し算の生き方が少しわかってきた。ミンギュはとってもヘルシーだ。私の健康インストラクター。

【転】超自我との戦い

アハハ。不健康でひねくれているわたしが、こんなことを言い出すなんてね。ウケる。
こんな風に、素直に変わりたいって思うたび、わたしの中の悪魔が邪魔をする。わたしの中の悪魔がわたしを笑ってくる。何言ってんの?お前はどうせ変われないよ。それもこれもどれも所詮自己満じゃん。向こうからはお前なんか見えてもねーのに、そんな大袈裟に考えちゃって恥ずかしくないの?自意識過剰なんだよ。

こういうの、超自我って言うらしい。わたしはわたしの超自我の機嫌と顔色をいつも伺っていた。これは正しいのかな。やっと人の顔色を伺う癖が治ったと思ったら、今度は超自我の顔色を伺うようになった。わたしは何も変われていなかった。また人からの評価を気にしたりした。こう思われているかもと被害妄想した内容は、人を介して私の超自我が放った罵倒だった。超自我がわたしを笑うたび、わたしは恥ずかしくて冷静なふりをした。一緒に自分を嘲笑った。楽だから。ここまで書くときも、沢山書き直した。沢山誤魔化した。笑われるのが怖いからっていつまでも、自覚ありますよみたいな保険かけてんじゃねーよ。いつまで超自我の言いなりになるつもり。自分に正直になるには勇気がいるんだよ。肝心なわたしは、どこに行ったの。
本当は、なりふり構わないくらい好きの気持ちでいっぱいで、どうしようもない感じがあって、でもそれがすごく嬉しくて、わたしの生き甲斐だ。超好きだもん。推しが、ミンギュが、大好き。毎日嬉しくてしょうがない。本当は毎日叫んでいたい。何回でも会いたいし、数秒近づいただけでもずっとときめきが止まらない。
勘違い?上等だ。どうせ今だけ?今を大事にできないやつが何を大事にできるんだよ。一方通行のキモい気持ち?お前に何がわかる。全身全霊で好きで、何が悪い。好きなんだから、それが、全部だ。



推しはわたしがノロノロと漕ぐ自転車を、いつも支えてくれている。ひとりで乗っていたときには、上手に乗りこなす人を見てわたしもあんな風になりたいと、そのまま漕ぎ出してみては転んでいた。なんで、どうして。できた擦り傷を眺めながら、塞ぎ込んでいた。だけど初めて推しに出会った日、世の中が平行に、カラフルに、安定した。こうやって漕ぐんだ。初めて漕ぐのが楽しいと思った。少し遠くまで行けるようになって、いろんな景色を見た。少し転んでも、前みたいに擦り傷はできなかった。よろけても、大丈夫だよと手を差し伸べてくれた。止まっても、漕ぎ出すのが怖くなくなった。漕ぎ出すペダルが、すごく軽くなった。
わたしはまだ、補助がないとうまく進めないと思う。でも、いつかひとりで自転車に乗れるようにならないといけない。でもそれは手を離れたらおしまいということじゃなくて、補助してもらったことを忘れるってことじゃなくて。いつまでも走らせてないで、心配かけてないで、支えてもらうんじゃなくて、わたしは推しと一緒にサイクリングがしたいんだ。

推しが食べてればわたしはそれでいいのに。
本気でそう思ってた。ごはんを食べること。赤ん坊でもやっていることすら、わたしはできていなかった。ちょっとやそっと食べなくても倒れないという、なまじ丈夫すぎる体に甘えていた。自己を犠牲にして、自分に酔っていたのかもしれない。自己を犠牲にするほど好き、って、自己犠牲は自己満足で、独りよがりで、自己愛だ。矢印が自分に向いている。確かに自己犠牲はわかりやすくて簡単だけど、自分を大事にしない人が誰かを大事にするなんて、そんなの無理じゃない?わたしはようやく気づいた。遅かったし、まだこの思い癖は私の根本にあるけど、自覚があるだけまだマシだと、思うことにしよう。

【結】新訳アイラブユー

いらん葛藤ともおさらばしたし。

ごはんはちゃんと食べた?
わかる。わたしも周りの人によく聞くようになった。そして、食べたよと聞くと安心する。相互作用ってきっとこういうことだ。
ごはんはちゃんと食べた?
この問いに、わたしも好きの気持ちを返したい。
何もかも捧げたいくせに、いつももらってばかりだから。

ごはん食べたよ。
私の新訳アイラブユー。


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