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小4で人生が決まる、と書いた話の反省と感想

先日書いたこちらのnoteでは、実に多くの方に読んでいただき、
さまざまな方から、さまざまなご意見、ご指摘をいただいた。
まずは、拙noteをお読みいただいたこと、心からのお礼を申し上げる。

今回は、頂いた意見をもとに更に思ったこと、ご指摘に対する反省などを書いていく、いわば「振り返り」のnoteである。

お詫び

最も多く意見が寄せられたのが「タイトル」についてで、
曰く、「小4で人生が決まることなどありません!」という内容であった。
こちらは全面的に仰るとおり、である。
まず、この点はしっかりとお詫びさせていただきたい。
不快感や違和感を感じられた方、申し訳ありませんでした。

1件目の指摘を頂いた時点で「たしかにこのタイトルはイタズラに話を大げさにしていて、煽っている、これはよくなかった」と思い、今の
「小学4年生である程度の人生の方向性はもしかして決まるのかもしれないと思った話」と変えたのだが、
正直これでもまだ良くなかったかと思っている。

あのnoteで僕が伝えたかったこととしては

・教育ボランティアを通じて知った、学習遅れの事例のなかでも、「問題の解き方」という、凄く基本的なところから間違えてしまっている子がいる
・この問題は通常学級の集団授業では解決が難しく親御さんの理解や家庭環境に左右される
・この問題は、どう解決されべきか

という3点である。

であれば、もっとタイトルの時点で
根本的な学習が遅れてしまっている子をどうサポートすべきか」や
現状の集団教育からあふれてしまった子への社会のあり方」のような、
考えのあるタイトルを付けるべきで、
「小学4年生で人生って決まるよね!」という、
一種状況を揶揄でもしているかのようなタイトルは、似たような境遇の児童やその関係者に対しては著しく不安を煽るような書き方になっていた。
改めて不快の念を抱かせた皆様にお詫びいたします。
本当に申し訳ありませんでした

実際自分の身の上を考えたとしても、
小学校時代はそれこそ小4まではいじめられて授業中にパニックになり、学校の外に逃げ出し、先生方総出で街中を探してくださったりするレベルで「逸脱していた(※と通知表にも書かれた)」し、その後、地元の学校ではさらなるいじめに遭うと危惧した両親たちのすすめで中学受験をして中高一貫校に行き、
大学では教育学を専攻するも、教育実習先の校長から「小学校の先生には向いてないと思う」と言われて慌てて就活、学習塾運営会社に入社するも、ハードワークが祟って難病を患い退職。その後はニート→フリーター→IT業界に入社、転職を繰り返して現職、という状態で、
人生上がったり下がったりを繰り返しているし、今後も難病とは死ぬまで付き合っていかねばならず、文字通り「何が起こるかわからない、今後もどうなるかわかんない」状態である。
そんな状態にありながら、「小学4年で人生が決まる」などとは、実に奢った発言でした。申し訳ありませんでした。
(※今自分のこの経歴を見ていて、もしかすると僕は多分に「勉強ができたことに救われた=勉強ができないと救われない」という一種のバイアスが掛かっているのかもしれない、と思いました。)

さて、次はいただいた意見について紹介していく。

こちらの「くらげ」さんのnoteをはじめ、直接twitterへのリプライや、DM、更にはブログやはてブでのコメントなど、様々な形で数々のご意見を頂いた。全てを追えてはいないと思うが、いくつかをご紹介していく。

まずは、この当該の女の子についてだが、
・障がいだと思う
・障がいではないと思う
という大きく2つの意見が見られた。

具体的に言うと、おそらく発達障がい、LDやディスレクシア等ではないかという意見から、これを一概に「障がいだと決めつけるのが間違っている」などなど、かなりそれぞれの意見はバラバラに分かれていた。

この点、前述の「くらげ」さんのnoteにある通り
・障がいだと診断されて、何らかの支援をされている子 がいる一方
・障がいだと診断されているが支援をされていない子、や
・診断もされていない(=ので支援もされていない子)子がいる、という点も踏まえると、まだまだこの部分は判断や対応が人によって?分かれる部分なのかな、と感じた。
(なお、教育学部を出た人間として恥ずべきことだが、僕は発達障害等について習ってはいたものの、その実情については、殆ど知らなかったんだな、というのをこの「くらげ」さんのnoteで知った。本当ありがとうございます。)

また、この子の将来についても、
・彼女はきっとこのままでも生きていけます、大丈夫です
・彼女はきっと大丈夫じゃない
とこちらも相反する意見が同じくらいの分量寄せられた。

更に、確認できる範囲でだが、発言者についても
・実際にADHDや高機能自閉、学習障がいを持っている当事者の方
・身内に発達障がいをお持ちのご家族、関係者
・発達障がいの研究者、もしくは支援教育をされている方
など様々な立場の方がいらして、同じ立場の方であっても
「私もこうだったけど、何とかなりましたよ」
「私もこうだったけど、どうにもなりませんでした」
「今現在もこの状態ですけど、どうにかなってます」
「今現在もこの状態ですけど、どうにもなりません」

と意見が別れていた。

勿論全てはネット上での発言なので、
じゃあ本当にそれが当事者なのか、また個々で状態や病状の重さや出方も違うであろうために、十把一絡げに結論を出すことはできないのだが

それでも僕の感じたこととしては、
「何とかなりましたよ」と「どうにもなりませんでした」を分けるのは
もしかすると

・たまたまその学校にいい先生がいた、とか
・たまたま児童福祉施設とかに行けた、とか
・たまたま就労支援によって仕事に就けて生活できている、という

「運」による要素が大きいのだろうか、という点だった。

「運」によって人生に大なり小なり影響が出るというのは、それは生きとし生ける全てのものに共通する要素ではあるのだが、
だがそれはあくまでも「何とか生きて行けている」ことが最低限の条件であって、運が悪かったがために必要な支援等も受けられず、それが受けられないことで生活もできず、結局どうにもなりませんでした、ということがもし本当に現状に存在するとしたら、それは完全に「間違っている」と思う。

「くらげ」さんが仰るとおり、
>「生き難さ」が重なれば重なるほど、人生の可能性は狭まっていく。
のはまさしくそのとおりで、

だからこそ、自分含めてではあるが
「現状こんな問題がありますよ」「こんな生きづらさがありますよ」「どうにかしないといけませんよ」という情報をキチンと受信して、どうしたら状況が少しでも前に進むだろうか、というのを考えなくてはならない、
(少なくとも今回僕はnoteを含めて皆さんから「現状はこうです」「こんな問題があります」と教えていただいて、少しではあるがこの問題を更に考える切っ掛けとチャンスをいただけた)

以上、前のnoteと合わせて大分長くなってしまったが、
ここまで読んでいただき、大変ありがとうございました。


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