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教育ボランティアで出会った小4の子の話

追記:2019/08/24
本note(旧題:「小4で人生が決まってしまう話」)について、実に沢山の方にお読みいただきまして、誠にありがとうございます。またあわせて、twitter・ブログ等で、沢山のご意見、感想、ご指摘などもいただき、感謝しております。
本noteのタイトルについては多くのご意見やご指摘をいただきまして、
「小4で人生が決まることなどないと思います」「そんな簡単に人生が決まると断言しないでほしい」とのお声をいただきました。

こちらについては仰るとおり、書き方に問題がありました。
取り急ぎではありますが、タイトルを改めました。
不快の念を抱かせた皆様にお詫びいたします。申し訳ありませんでした



いつもどおりきっかけはツイートからの話なのですが。

小学校のテスト、あのやたらにカラフルなやつ、
皆さんもかつて解いたことがあるかと思います。

あの手のテストって基本的には
クラス内なり、学校内なり、ひいては日本中の小学校とかまで含めて、平均点が80点だか90点だかが取れるように作られてて、つまりは
どの子も大体が満点を取れるように作られている
と聞いたことがあって、そのために国語であれば必ず文中に答えがあったりとか異様に長く試験時間を設けたり、となってるそうで。


逆に言うと、上のサイトにあるとおり、
そのテストで30点とか40点の場合は結構危険信号というのが定説なんですが、今回はじゃあ何でそういう子が生まれるのか、そしてそういう子がどうなるのか、というのを僕が見た中で話していこうと思います。

教育ボランティアで見た女の子

今からン十年前に僕は教員を目指して教育学部におりました。そこで、教育実習やら、教育ボランティアとしていろいろな小学校にて小学生の指導やお世話をさせてもらってたのですが、今も覚えてる一人の女の子がいます。

その子は小学4年生だったんですが、かなり勉強が遅れていて、
・ひらがなが危うい:「読み」も全50音だと怪しい。「書き」については「ま」とか「は」が鏡文字だったりするレベル
・カタカナ、漢字もガタガタ
・算数に至ってはおそらく、足し算引き算の繰り上がりあたりが厳しい
というような状態でした。

学校教育というのは基本的には集団授業ですから、クラスの平均の子の理解度に合わせて授業が進みます。つまるところ、理解の早い子にとっては若干退屈で、その女の子のように理解の遅れている子は置いてけぼりになる。
そのギャップを埋めるべく、少人数制とか居残りとか、僕のような教育ボランティアの学生などを使って、なるべくギャップを埋めていく、というのが当時のその小学校が行っているやり方でした。

さて、ボランティアたる僕は「ほぼその子専任」という形で、その女の子の勉強の面倒を見るように担任の先生からお願いをされていました。

ある時、その子は算数の問題を解いていました。
たしか、「32÷8」とかそんなやつだったかと思います。
その子は「10!」とか「6!」とか答えていました。
僕の当時の理解では「ああ、掛け算というか9×9から理解が遅れてるのかな」と思い、「うん、まずは問題を読んでみようか」と伝えました。
しかしその子はなおも「あ、5?…7?」と当てずっぽうを繰り返します。

まさしく、このtogetterで言われている「答えをひたすら当てに行く」というやり方でした。
ただ、このあとで僕は「どうして彼女がそういう答え方しかしないのか」を知って愕然とします。

その時間は結局正しい答えは出せず(まあ当て勘で4!と答えたこともあったかもしれないですが)、彼女は機嫌が悪くなってしまい、僕は僕で「考えさせるってことができなかったなぁ…」と悩んでいました。そこで、担任に顛末を伝えて「どう指導すればよかったでしょうか」と尋ねました。

そこで教えてもらったのが、例の「愕然とする話」です。

考えることができない子

結論としては、彼女を短期的に救うのはかなり難しい、というかストレートに「彼女は諦めた方がいいかもしれない」という話でした。
若かった僕は「何てこと言うんだこの教師は💢」と内心だいぶ怒っていた気がします。
しかし先生がその後に続けた話を聞いて、怒りの代わりに、ものすごい虚脱感というか大袈裟に言うならば絶望を感じることになります。

曰く、

①彼女は前述の通り、小1レベルの「足し算引き算」あるいは「ひらがな」から学習進度が止まっている

②それは単純に学習単元の理解が遅れているレベルの話ではなく
小1で学んでおくべき、根本的な部分を取り逃している

③具体的に言うと彼女は「問題を解く」ことそのものを理解していない、
問題文を読み、尋ねられている内容を把握し、何をすれば良いか理解する、という行為そのものが「分かっていない」

④なので「たし算をしましょう」とか「花子さんの気持ちを答えましょう」という問題文を読んでも、何をしろと言われているかが分からず、
適当に数字を言って、正解と言われるまで当てるゲーム
・喜怒哀楽のどれかを言って、正解と言われるまで当てるゲーム
だと思っている

⑤そのため「問題文をよく読んで?」とか「問題に何て書かれていた?」と質問されても、意味が分からない。
本人からしたら「(好きな数字を言ったり、喜怒哀楽を当てるだけのものなのに)何で問題文を読む必要があるの??」と思っていると思う

というショッキングすぎる話でありました。

この話は当時の僕ーーつまるところ、小学校のテストは100点が取れていて、中学受験も成功させ、大学も無事受かって単位を落とすことも無く学生生活を過ごしている、いわゆる「勉強ができている」僕にとっては、
完全に理解の範疇を超えた話で、しばらくは「そんな事がありえるの…?」とボーゼンとしてしまいました。

先生は更に続けて

なので、多分その子が他の、平均的な子と同じレベルに追い付くためには

・まずひらがな、カタカナ、漢字を習熟する
・その上で、書かれている文章の内容を理解できるようにする
・更にそこから、問題文の文意を読み解き、ただしい解法見出す、ということを覚える→ここでようやく「問題文が何を聞いていて、それをするために何をすればいいか、を考えること」を学ぶ
・くわえて、足し算引き算以降の学習内容を習得する

というだけのステップが必要で、
それを今の学習と並行して、かつ本人のやる気を持続させながら行うのは、学校だけでは確実に不可能だ、と話をしてくれました。

親御さんの理解

学校だけでは不可能ならば、親御さんと一丸となって体制を作らなくてはなりません。しかし、親御さんは
・懇親会や個人面談にも来ない
・家庭訪問にも応じない
・再三に渡って学業面については手紙等も渡してるけど一切反応がない
とのことでした。

再び、何とひどい親かと憤慨したくなったのですが、
家庭の事情として、お父さんはずっと連絡が取れず、お母さん一人で育てており、お母さんは日々の仕事で手一杯な生活をされていて、如何ともし難いという現実がありました。

勉強の大切さは分かっていて、けれど打てる手が無いのか、
あるいはそもそも勉強なんて無くてもどうにか生きていけるよ、と親御さんが実際のところどう思われているのかは分かりませんが
その場で僕が心の底から理解させられてしまったのは、

ああ、この子は、この9歳の女の子は、今もうこの場で、小4の時点で、
ある程度人生の展望、進む道が決まってしまっているのだな、

という結論でした。

勿論、偏差値30台から東大に入ったとか、不良になってから一念発起して学校に通い最後は社長にまでなった、というような話は聞かれます。それはそれでとても素晴らしいことです。ですが、その根底にはやはり
めったに起こらないようなことだから」話題になる、という事実があります。多くの場合はやはり、一度外れてしまった道から再び元の道に戻ることは非常に難しいことなのは間違いないです。

それは、大学生だった当時の僕にとってはかなりのショックで、重苦しい、受け入れたくない現実でした。

もう一つの特徴

その一方で、その子には一つの特徴がありました。

率直に、言葉を選ばずに言うと、その彼女は
他の子と比べ、人に対して異様に接触したがるという"特徴"がありました。

これについてはボランティアの初日から僕も感じていた点ですし、先生たちからも「あの子への対応は気を付けるように」と言われていた部分でした。

具体的にいうと、
・すぐに相手の手や身体に触れることが多い
・会ったばかりでも「私、先生のことが好き~」などの好意を口にする
・「家に来てほしい」「抱っこして欲しい」などなど
という点です。

これを、単に早熟な子として見るか、あるいは何か他の原因、
例えば自宅での寂しさの裏返し、あるいは学校の授業での「寄る辺なさ」みたいなものを埋め合わせるための心の動き、と見るかは人それぞれだと思うのですが、ともかく彼女にはそういう"特徴"が見られました。

別に人に懐きやすいことは悪いことでも、忌むべきことでもありません。それができない人もいる中で、「できる」というのは一つの特筆すべき才能だと思います。

しかし、これは僕の偏見かもしれませんが、
非常に辛辣な言葉を使えば媚びていくことが既に彼女の中で「武器」になってしまっていてきっと今後も彼女はこの「武器」を使って生きたいくんだろうな、と僕はその時に漠然と思いました。
そして、それがたった9歳の時点で決まってしまっているということに、何か途轍もない虚無感というか、喪失感、虚脱、無力感のようなものを感じたのでした。

それはもしかすると、今まで幸運にも「勉強にも生活にも困ることなく、世の中の大通り、太陽の当たる道」を歩き続けていて、なおかつそれを歩いていると気付いていなかった僕が初めて目の辺りにした、現実の姿だったのかもしれません。

まとめ

その後、教育ボランティアは終わりを迎え、そこから更に教育実習やら採用試験などの紆余曲折を乗り越え、今は教育とはほとんど関係のないIT業界の人間として暮らしています。

当然、その子が今どこでどうして過ごしているか、どうなっているかも知りません。ただ、このことはそのボランティアから数十年経った今も、僕の中に未だにずっと残り続けています。

きっと、今も彼女と同じような、もしくはもっともっと複雑な、深刻な現実を小学校のうちから、あるいはもう生まれた時から背負っている子たちは大勢いるのだろうと思っています。

もしかするとですが、高機能自閉症とか発達障害と名前がついた子は、まだそれに応じた治療、というか対応を取れるから良いのかもしれない。
そうではなく、ただひたすらに「生まれ落ちた環境」によって、完全に進む方向が決定付けられ、そこから這い上がれない"普通の子"というのがいる、
というのが僕にとっては今なおショックな現実として、ずーっと心に留まっているのです。

ごめんなさいね、じゃあどうしたらいいか、っていう解決策についても考えて書こうとしたんですが、どうしてもいい案が浮かばなかったので、こういう問題提起だけして終わりになるnoteになってしまいました。
是非とも、皆さんの思う解決策、を教えてほしいと思います。

おまけ
この話をした際に、twitter等でフォロワーさんたちから一斉に勧めていただいた書籍です。アフィリエイトとか付いてないので、是非興味ある方はお読みください。


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