テロ時代の安心安全

 1970年代生まれの私にとって教育で刷り込まれたのは、原爆は人類を45回全滅させるほどあって、そのボタンを押したら、明日には全部終わっちゃうんだぜ!的な終末観。それが東西冷戦だった。それでも、そのボタンだけは誰も押さないと「人間の賢さ」を信じながら、どこか緊張感があり続ける世界だった。だからというわけではないが、戦争や原爆がどれだけいけないことか、憲法がどれだけ素晴らしいか、を叩きこまれてきた。それがベルリンの壁が崩れ、ソ連がロシアに代わり、中国が強大になり、そこに9.11が来る。東西冷戦のころはアメリカとソ連のトップさえボタンを押さなければ今日も平和が訪れいていたから、極端な話、多少いがみ合っても、その2人さえ大丈夫なら、余計な心配は他になかった。それが音を立てて崩れたのが9.11なんだったと思う。それまでは、核のボタンを押す、押さないの緊張感を描いたハリウッド映画がたくさんあった。そこが最大の危機だったから。それが突然、前後ろともなく突然殴りかかってくる人というのが現れた。しかも自らの命も顧みず、特定個人ではなく不特定多数を狙って。この9.11は攻撃する方の方法も攻撃される側の心の持ちようも全く変えてしまったのだと思う。どこから飛んでくるか分からない恐怖。

 コミュニティにおける安心安全の確保が声高に叫ばれるようになったのはこのあたりとも関係するのではないかと思う。そのコミュニティに異物が混ざっていないか?を気にする。そのくせ、コミュニティには多様性が重要だという。一つのコミュニティのなかで、どのようにこの安心安全の確保と多様性のバランスをどうとるか?となりそうだが、そうではない気がしている。一つのコミュニティの中でその安心安全と多様性のバランスをとるのではなく、自分の所属するいくつのものコミュニティのなかで、個人としてバランスを取っていくことはできないのだろうか?構成員が同質化しているようなコミュニティ、構成員には共通性がほとんどなく多様性があるが、ある一点についてはものすごくつながりあっているコミュニティ。そういういくつものコミュニティに属することによって個人の中での多様な考え方を確保したいと思う。コミュニティの安心安全の確保が自分と遠い人たちの考え方に接する機会を失わせる。それを避けるために、いくつものコミュニティに属する。

 人間は、猿から進化し森からサバンナに降りてきた時点で、複雑化したコミュニケーション方法を獲得し、コミュニティという群れでの生存戦略をとった。しかし、そのコミュニティは死ぬまで同じコミュニティに属することを意味していた。それが様々なコミュニケーションツールや移動手段によって、様々なコミュニティに属することができるようになった。しかし、そう簡単に人間は変わらない。安心安全が確保されているコミュニティに居続けること心地良さから、他のコミュニティに新たに属することが面倒くさく見え、おれはここでいいや!と思い、思考を停止させる。

 種の生存に必要なのは、どれだけ強いか?ではなく、どれだけ環境の変化に適応できるか?だと誰かが言っていた。そう考えるとコミュニケーションツールの発達という人類が置かれた新たな環境は、長く続くコミュニティに居続けようとする人たちといろんなコミュニティに出入りする人のどちらにどのように働きかけるのだろうか?は自明である気もする。明日から全員がパッとかわるわけではなく、徐々に人の考え方が変わり、また時を経ることによって人自体が変わっていく中で、これからいくつものコミュニティに属していくことが生存戦略的に正しくなっていく気がする。


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