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宇治、ひとり旅。 - 座禅編 -

秋のさいしょに目にする、色づきはじめのもみじを「初紅葉(はつもみじ)」と言うらしい。

そう、宇治ひとり旅からずいぶん秋も深まってしまった。
薄れていく記憶をなんとかたぐり寄せて、初秋の宇治旅を綴ってみようと思う。

朝6時に起床して、わたしのカラダはまだ寝ぼけまなこ。
それでもなんとか電車に乗り込み、京阪宇治駅へと到着した。

今回の旅のメインへと急ぎ足で向かう。
まだ観光客はいないようで、地元のひとたちがおさんぽやジョギングをしているのとすれ違う。

そんな朝の風景を片目に、わたしはとある坂へとやってきた。
初紅葉が、さやわかな秋風に吹かれて揺れている。

坂の脇を流れる水が、まるで琴の音のように美しいことから名付けられた『琴坂』を、わたしはドキドキと胸躍らせながらのぼった。

『琴坂』の初紅葉

坂を上がりきると、白い塀が印象的な山門のお出迎えだ。

拝観料の500円を、山門前にある自動券売機で購入する。
意外とハイテクだ。

『興聖寺』の山門

今回訪れたのは、禅宗・曹洞宗の寺院『興聖寺』。
目的はズバリ、「坐禅体験」だ。

これまで二度、寺院での座禅を経験したことがあるが、どちらも「臨済宗」のお寺だった。
だから、「曹洞宗」の坐禅を体験するのはきょうが初めてだ。

わたしが曹洞宗に対してもっているイメージは、「厳しい宗派」。
実際はどうなんだろう。

初めての方は開始時間の30分前に来てくださいと。
その時間で、「座禅のいろは」を教えていただいた。

どうやらこのお寺では、雲水という修行僧が実際に日々坐禅を組んでいる僧堂で坐禅体験をさせてくれるんだとか。

一気に身がひき締まる。

事前にお作法を教えてもらったとはいえ、緊張も相まり、僧堂では常に見ようみまねだった。

たとえば、どの足から入るのかとか、座布団に座るまでの作法だとか。

緊張のあまり、呼吸のリズムがおかしくなっていた。
それくらい厳かな気の流れを感じる空間だったということだ。

ころっと丸い座布団に座り、半跏趺坐(はんかふざ)といって、片足をもう片方の腿の上にのせて足を組んで座る。

手は、法界定印(ほっかいじょういん)という、右手のうえに左手をのせて両手の親指をかるく合わせて印を結ぶ。

両足をそれぞれの腿の上にのせる結跏趺坐(けっかふざ)で坐禅を組めるようになりたいのだが、あいにく股関節が硬くてまだ組めない。

足の組み方についてはこちらのnoteがとてもわかりやすい。

坐禅は20分間×2回を行った。(うる覚え)

ちなみに、曹洞宗の坐禅では「壁」を向いて組む。
目は臨済宗と同じように半開きで、仏像のように斜め下に視線をやった。

坐禅と坐禅の間には、経行(きんひん)という歩く坐禅も経験した。

叉手(しゃしゅ)といって、左手の親指を内側にして握り、手の甲をそとに向けて胸に軽くあてる。その左手を右手のひらで覆ってあげた状態で、一息半歩(いっそくはんぽ)、息を吐くたびに足を半歩進めるという歩きかたで、僧堂のなかを右回りに歩くのである。

事前にもらった説明書きにはそのことが書いてあったのだが、坐禅の組みかたを教えてもらうので精一杯だったわたしは、その用紙を事前によく読んでいなくて困惑した。

常連のかたがご指導してくださり、これまた緊張ぎみにキョロキョロ周りの様子を伺いながら、経行の列に加わった。

「これが「本格的」な坐禅なのか。」と、学びと驚きの連続であった。

坐禅中はお香が焚かれているのだが、かなり辛めの香りだった記憶である。
その香りに、これまた身が引き締められた。

いつも家でやる我流の坐禅とはまるで違って、緊張しながらもとても清らかな心になれたような気がする。

車の音すら聞こえない、きこえてくるのは鳥や虫の声のみという環境で、ひたすらに座禅を組む。とても貴重な経験だった。

坐禅のソロ活ははじめてだった。

すごく緊張したが、経験してみると「ひとりで坐禅に参加するのもいいものだ」と思えた。

誰かといくと、ついつい「群れ」になってしまいがちだ。
でも、座禅とは「己」に集中すること。

だからひとりでも全然平気だったし、なによりひたすらに「じぶん」と向き合うことができた。

いってよかったと心から思えた、ソロ坐禅だった。

『僧堂』(座禅道場)



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