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行方八段と野月八段、そして木村九段

 将棋界は今、佐藤天彦名人に羽生善治竜王が挑戦する名人戦七番勝負が佳境を迎えている。佐藤名人が3勝2敗と防衛に王手をかけて、6月19日から山形県天童市で行われる第六局の開幕を待つ。天童は2年前に当時の羽生名人が佐藤挑戦者に破れて名人を失冠した地だ。あの日、大盤解説会場を出た瞬間に鳴り響いた雷鳴と降り出した豪雨に、神様の存在を信じた人は多かったろう。私もその一人である。羽生ファンとして、あの日の放心は昨日のことのようである。

 しかし今から書こうとしているのは名人戦の話ではない。名人戦が佳境を迎える中、順位戦が始まった、と言いたかっただけである。すでに6月12日、A級順位戦・豊島将之八段—稲葉陽八段戦の開幕局から熱戦の火蓋が切られているが、今日(6/14)は順位戦B級1組1回戦が行われており、野月浩貴八段と行方尚史八段が盤を挟んでいる。

 野月八段には、モンテディオ山形と将棋のコラボイベントでひとかたならぬお世話になっている。始まりも継続も野月八段なしにはあり得なかった。今年5月の開催で10回目となったコラボイベントだが、行方八段は過去に2度、ゲストとしておいでいただいてる。野月八段とはプライベートでも仲がいい、というのは将棋ファンの間ではよく知られていることだ。二人は1973年生まれの同い年である。

 棋士というのはとても礼儀正しい。必要な場では必要な礼を尽くす。言葉も丁寧だ。プライベートでは気のおけない友人同士でも、公の場では「さん」や「先生」などの敬称をつけて呼び合うことが多い。「野月先生」「行方さん」のように。それでも、スタジアムでの将棋×サッカーイベントのように少しカジュアルな場では、野月八段が行方八段を「ナメちゃん」と呼ぶところに遭遇し、二人の幼なじみ感みたいなものを垣間見たような気がして嬉しい観る将である。

 そんな観る将の萌え場面について、いつか書きとめておこうと思いつつサボっていた小さなエピソードがある。

 昨年11月に行われた将棋×サッカーコラボイベントは、レギュラーの野月八段に加え、行方八段、そして当時NHKの将棋講座で講師を務めていた佐藤和俊六段、ライトノベル「りゅうおうのおしごと!」を上梓した白鳥士郎氏を迎えて行われた。

 前述のように、コラボイベントはこの時が10回目となったのだが、10回目にして初めて、私はこれまでのゲストのサインをいただいていなかったことに思い至った(しかも当日の朝)。普段、個人的に「サインをもらう」ということをしないからだが、一応、端っこの切れ端とはいえ運営側に関わっている身としては、なんと気の利かないこれまでだったことか。毎回、豪華な面々がNDソフトスタジアム山形に集っているにも関わらず。過去9回分のもったいないおばけが成仏してしまいそうだ。

 何事にも遅すぎることはない。慌てて色紙を調達し、控え室でゲスト4人にサインをお願いした。野月八段の命令により、「絆」「将棋×サッカーコラボ」の文字を佐藤六段が書き入れる。行方八段は「俺は最後で。俺が最初に書くと他の人の書く場所がなくなっちゃうから」と言う。

 3人がサインを終えた後、色紙に向かった行方八段が、サラサラと描き終えたその時、突然叫んだ。

 「うわああ!」

 心底驚いたように、目を剥いた。そして次に、彼は笑い出す。

 「やっぱりな、こうなるんだよ」

 そうして差し出したのがこれ。

 確かに、行方八段のサインだけ大きい。まるで最初に書いたかのようだ。でも自分で書いておいてそんなに驚かなくても。しかし、萌え場面、というか萌えセリフはこの後である。行方八段は笑いながら言った。

 「棋士に字のうまさが必要だなんて思っていなかったよ。いろんなところで何か書いて下さいって言われる。一人ならまだいいけど、字のうまい人と並んで書くのとか勘弁して欲しい……野月とかまだいいんだよ! 木村と一緒とか最悪!あいつ、うまいんだよ!」

 そうか。そうなのか。普段は「のづき!」とか「きむら!」と呼んでいるんですね。ああもう。それを生で聞けただけで、本望だ。

 将棋ファンには言わずもがなだが、「木村」とは木村一基九段のことである(揮毫の文字を見ると確かに達筆である)。やはり1973年生まれで、3人は小学生名人戦に出場した頃からの盟友なのだ。ちなみにこの大会で野月八段が優勝、行方八段が3位、木村九段はベスト8の成績を残している。木村九段もまた今日、菅井竜也王位を相手にB級1組の開幕局を戦っている。

 小学生の時から盤を挟み、魂で会話をするような対局を積み重ねてきた3人が、30年以上経った今もそろってB級1組でしのぎを削る。しのぎを削りながらも、盤を離れれば、心の機微を分かり合える同志として笑い合う。すげえなあ。そして、いいなあ、素敵だなあと思う。今日、どちらが勝っても負けても、その関係はずっと続いていく。


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