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「物語」は空想上の生物である

私が中学二年生の時、つまりは2018年の3月11日。同級生たちは雁首揃えて東日本大震災に関するポエムツイートをしていた。私はなんだか釈然としない。岡山の中学校に通っていたため同級生たちも東日本大震災による津波地震の実害は出ていないはずなのに。口先だけツイッターで講釈垂れてあたかも善人のようだ。当時の私は自分の思考を説明するのに十分な語彙力を持ち合わせていなかったため同級生たちに「東日本大震災はポエム大会のためにあったんじゃない」と批判したところ「周りと違う意見を言うのがかっこいいと思っているだけ」と皆に一蹴されてしまった。

それから六年後、私はとある映画評論家の『すずめの戸締り』に関する文章からある言葉を授かり、目から鱗が落ちた。
「東日本大震災は日本史におけるカタストロフィではない。」
この言葉を受け取った瞬間に色々なことが紐解けた。

物語とは空想上の生物だ。

考えてみれば当たり前だ。冷めた見方かもしれないが現実世界で起こっていることは全部「現象」であり物語の一部ではない。

東日本大震災も
阪神淡路大震災も
原子爆弾が落とされたことも
京都アニメーションが放火にあったことも

WBCで日本が優勝したことも
井上尚弥がベルトをとったことも
東京五輪がきまったことも
W杯で決勝リーグに進んだことも

そして、人間は物語が好きすぎるあまり現実世界で起きていることを自分の頭の中で勝手に物語ってしまう癖がある。

人間は元来心を動かされるのが好きな生物である。
こんな経験はないだろうか、泣ける映画(笑)を見ていて、感動して涙が流れた。そうすると無意識に自分の頭の中で登場人物のバックボーンや台詞を回想して「泣けるポイント」を勝手に探してさらに心を動かされ涙を流す。
とか
最後の夏、寝る間を惜しんで、これが最後、亡き○○のためにetc.の感動を誘うようなポップを目にする
とか
実害を被ったわけでもないのに東日本大震災に関する被害者ポエムツイートをしてうわべの悲壮感に心を洗わせる。
とか

私はそれは「ずるい」と感じてしまう。

余談ですが斯様な理由で私は野球の延長でドラマsilentの放送時間がずれた時に、「今見てる野球こそがドラマなんだよ」的なこと言った人のことを心底バカにしていますし軽蔑しています。
(そもそも野球好きな人の中にたまにいる「野球好きこそ地球の真ん中でござい」感が無性にイライラする)
(まぁ、もっと言うと野球ってその性質上、物語視しやすいんですよね。同点九回裏二死満塁とか、最後の夏とか、何年振り何回目とか、因縁の相手とか、エトセトラエトセトラ。だから、沢山の人がそれに熱中するんでしょうね。「物語視×(比較的)多くの人が野球好き」の相乗効果で野球ファンにあらずんば人にあらずとでも言いたげな肩幅の広い態度をとる人がいる理由はそこにあるのかもしれませんね。)

まぁ野球に限らず、目の前に起こっている現象を物語化するとき、人は往々にして自分が世界の中心にいる感覚に陥ります。(自戒も込めて)気を付けようと、周りに迷惑のかからないようにしようと思います。

私たちはどう生きるか

ここまで現実を物語視するのを批判した私だが、私が真に批判したいのは減少を物語視することではなく、その末に周りに悪影響を及ぼしたり、現象を出しにして自己満足的な行動を起こしたりすることだ。
物語視することのような人間的な営みは豊かだと思うし、論理的な正しさこそ善とは思ってない。

応援しているスポーツ選手もいますし、好きな方が無くなったら悲しいし、やはり3月の11日には毎年心を痛めている。

ただ、私は他人の不幸に心を痛めるのであればそれを物語視してポエムツイートを垂れ流して自分の罪悪感を拭うのは卑怯だと思う
何でもいいからその他人のために自分ができることをすべきだと思う。

寄付でも、ボランティアでも、意思表示でも構わない。

この世界に物語などないのだから悲しみを抱くだけでなく、一歩前に踏み出すためにできることをするべきだと思うし、そういうものに私はなりたい。

おわり

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