【短編小説】1K

ダルさんが「泣ける話グランプリ」というものを開催しています。ぜひともこちらのページもご覧ください。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------

1K


「そうだ、カレーを作ろう」

 電話を切ってからしばらくぼんやりと座っていた私は、一人の部屋で呟いた。そうと決まれば善は急げだ。よし、と膝を叩いて立ち上がると、キッチンに移動し、冷蔵庫の中を覗く。幸いにも材料は揃っているようだ。今から作り始めれば、普段通りの時間に夕食にありつけるだろう。

 牛ひき肉、にんじん、じゃがいも、そして玉ねぎを取り出して、冷蔵庫の扉を閉める。普段ならお肉は使わないのだが、まあいい。今日は特別だ。ご飯は昨日炊いたものが炊飯器に残っていたはずだし、抜かりはない。

 シンクの下から包丁と鍋を取り出し、乾かしておいた、まな板を敷く。まずは、材料を切らなくては。

 たぶん、どの家庭にも、その家ならではのカレーの作り方というものがあると思う。使う具の種類だったり、隠し味に使うものだったり、材料の切り方だったり。私の母が作るカレーの特徴は、全ての材料がとても小さく切られているということだった。みじん切りといってもいいかもしれない。

 まずは、にんじんに包丁を入れていく。包丁がまな板に当たって、リズミカルな音を立てる。我ながら慣れたものだと思う。

 それもそうだ。親の説得も聴かずに東京に出てきて、もう七年が経とうとしているのだから。あれから何度、このカレーを作ったことか……。暇なしの一人暮らしに、作り置きできるカレーは強い味方なのだ。

 にんじんを刻み終えると、じゃがいもを手に取る。じゃがいもはみじん切りにはしないが、それでも、小さく小さく切っていく。浮かんでくる実家での日々のこと、東京に越してきてからの日々のこと。それらすべてを今だけは忘れられるように、じゃがいもに集中する。

 じゃがいもを切り終えた。少し小さく切りすぎてしまった気もするが、これはこれで食べやすくていいだろう。さて、次は玉ねぎだ。

 皮をむいて、包丁で切れ目を入れていく。つんと、玉ねぎ独特の刺激が目と鼻にくる。じんわりと涙が浮かぶ。その涙は次第に量を増やし、瞬く間に両目から流れ始めた。こぼれ落ちていく涙は、どうにも止まりそうにない。

「玉ねぎ切ると、昔からこれだもんなぁ……」

 誰もいない部屋で、言い訳がましく呟く。呟いてしまうと、涙の勢いが強くなった。たぶん私はいつの間にか、夢よりも、きっかけを欲するようになっていたのだ。

 さっきの電話で告げられた「落選」の言葉。根拠のない自信に満ちていたあの頃。

 一向に芽の出ない活動に、ため息を繰り返す毎日。目的のための手段でさえ、楽しめていたあの頃。

 一緒に上京してきた友達に、地元に戻ると告げられた日。夢を持って上京してきた、七年前の四月一日。

 さっきまで忘れようとしていた思い出が、頭に浮かんでは、涙になって流れていく。思わず包丁を置き、口元を手で覆う。足に力が入らない。私は、泣き崩れてしまった。

 もう、前が見えない。


 どれくらい泣き続けていたのだろう。少し落ち着いた私の頭には、「泣き始めたのが、鍋を火にかける前で良かったな」と、そんなことが浮かんでいた。

 しばらくそのまま座っていたが、よし、と頬を叩いて立ち上がり、シンクの蛇口をひねって水を出し、顔を洗う。いつもの夕食の時間は過ぎてしまったが、まずは、作りかけのカレーを作ってしまおう。

 再び包丁を握り、玉ねぎと向き合う。やはり涙は流れてきたが、今度はそれを、愛せそうな気がする。実家の味がするカレーのことを想像して、私は小さく微笑んだ。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?