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手紙と宛先『死のフーガ』パウル・ツェラン


手紙と宛先
パウル・ツェラン『死のフーガ』
(『パウル・ツェラン散文集』ほか所収)


ぼくらを朝に昼に夕に命令する彼は夜、恋人に手紙を書き、夜空の星々をあおぐ。
死のフーガのなかで、ことはすすみ、旋律はかさなるように掛けあい、ことはすすみ、ぼくらの入る墓はすすみ、ぼくらの腹を黒いミルクが浸し、ぼくらの誰かに銃弾は命中し、ことはすすみ、ぼくらは煙となって立ち昇る。
ぼくらは彼から「贈られる」命令を飲む、朝に昼に夕に、飲む。
きらめく星々の下で彼によって書かれた手紙は彼の恋人へ贈られる。


宛先はひきさかれる。
彼の書く恋文は金色の髪マルガレーテに贈られる。
彼がぼくらに「贈る」命令を、ぼくらは飲む。
その暴力の送り物の宛先が、だれでもなくぼくらであるとき、自分の抱える牢獄であるぼくらのからだに向かうとき、からだはそれを飲まざるをえないとき、ぼくらは宙へ浮く。
そしてそれらを見る。その贈り物の送られる様子を見る。彼がぼくらに送るものと、うけとるぼくらを見る。そしてまた見る。彼が、夜、金色の髪マルガレーテに恋文を送るのを。星々をあおぎ、彼の犬たちの世話をかいがいしくおこなうのを。


そこに余地はあるだろうか。
宛先について。そしてその送り物について。差し出し人である彼に疑問を抱いてもらうようななにか、入り込むような余地は。ぼくらは彼になにを送ることができるのか。なにか、彼に彼の営みに疑義を促すような手紙は、ぼくらは贈ることができるのか。その手紙は彼の眼前に充満しているはずだった。ぼくらのからだの上に。彼がぼくらに「贈る」黒いミルクの表面に。彼はそれを見ることがあるか。読むことがあるか。聞くことがあるか。
例えばそれは映画のなかで、小説のなかではあった。暴力のベクトルに、営みに、それをおこなうその者の顔に、「良心」の呵責が「疑問」が、垣間みえる瞬間が、大写しになって。細かく描写されて。でもそれは今でもなくここでもない。いままさにぼくらのからだの上におこなわれていることと、はたしてなにか、接続の可能性があるものだろうか。


この詩とどこかで出会って、聴き、ノートに書き留め、たびたびめくり、読み、その時間のなかで、わたしはツェランのことを知らなかった。この文章を書くほんの数日前まで。詩のなかの言葉、黒いミルクの黒さが具体的に何によってであるか、宙にほられる墓がなぜ宙であるか、金色の髪マルガレーテと灰色の髪ズラミートがいったい何を表すのか、タイトルである死のフーガが想起させる死のタンゴについて。すぐに具体的なそれらを結びつけることができない土地とからだと時代の者として詩を聴き、書き留め、なんどもそこにあるものを聴いたのは、宛先のひきさかれた真っ赤な黒い裂け目と眼が合ったからだ。


手紙は届くのか。届かないのか。
届いてほしいと思っている。ぼくらはせめて、この手紙は届いてほしいと。ぼくらは手紙に絶望する。届いてほしいと思っている。せめて今、せめてここでは届いてほしいと思っている。
彼はそれを受けとらないだろう。いくらでも受けとれるのに受けとらないのだ現に。かさなりあい掛けあうフーガの旋律のなかで、ついに宙に浮かんだとき、手紙は宛先をうしなう。手紙は宛先をうしなって詩になる。


宛先をうしなった詩がここまで飛んでくる。詩には宛先がもう読めない。
ぼくら、彼、マルガレーテ、ズラミート。宛先が消えたとき、それはだれでもあり、だれでもなくなる。
こどもが、大人たちのやりとりが醸す雰囲気から、すべてを察知するように、経験と情報に先立って、詩はみなに届く。みなに。そうしてだれか、国も時代もちがうだれか、そのもともとの宛先が具体的に誰であったのか、何年何月何日何時何秒だったのか、何があったのか、そのすべてが複合的に組み合わされた様々な細部から遠のいた時代の子どもは察知する。大人たちのやりとりが醸す雰囲気からすべてを察知するように。そうして書き留める。彼に代わって。ぼくらに代わって。マルガレーテに代わって。ズラミートに代わって。宛先をうしなった手紙を、詩を、詩になったことばをノートに書きつける。


パウル・ツェラン『死のフーガ』
(『パウル・ツェラン散文集』ほか所収)



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