見出し画像

【枕を高くして寝る】

 ── 安心して寝ること ──

 省略して「高枕」(たかまくら)とも言う。何の心配事もないことを表わす言葉で、最初に使われたのは中国の戦国時代である。

 戦国時代とは、文字通り、各国が入り乱れて戦いにつぐ戦いにあけくれていた時代である。
 初めのころこそ天下に覇を唱えるのは誰なのか検討さえつかないほど混沌としていたものの、時間が経つにつれて、頭角を現してくる国と、力が衰えてくる国がしだいにはっきりしてきた。

 そして魏(ぎ)の国は、残念ながら後者のグループに入っていた。自分のところの勢いがなくなってくるということは、相対的に他の国がそれだけ強大になるということでもある。
 特に、魏(ぎ)に国境を接している韓(かん)と楚(そ)は、兵力もあり、豊かでもあるばかりでなく、実力にものを言わせて実にしばしば国境を犯して攻め入ってくるので、国王は夜も安らかに眠ることさえできないでいた。

 そんな魏(ぎ)のありようを見るに見かねて、雄弁家として名高い張儀(ちょうぎ)が国王に進言した。
「現今の状況は、魏(ぎ)の力だけではおそらく打開できますまい」
 王は、苦い顔をして言った。
「認めたくはないが、その通りだ」
「自国だけで解決できないときは、他国の力を利用するのも手ではないでしょうか」
「同盟を結べというのか。なるほどそれもひとつの手だろう。しかし、どこと結ぶか。それによって今後の国の方針を考えなくてはならない。しかし、だいいち今のような状況にある魏(ぎ)と同盟を結びたいという国があるのかどうか、そのほうがはるかに疑問だ」
 それほど魏(ぎ)はひどい立場にあったのだ。
 いつ滅んでもしまうか分からないような国と手を結んでは、自分の国も危うくなってしまいかねない。共倒れの危険をおかしてまで魏(ぎ)と同盟したい国などあるものか。
 張儀(ちょうぎ)には国王の考えていることが手に取るように分かった。
「結ぶべき相手は一国しかありません。秦(しん)です」
「し、秦(しん)だと!」
 国王は思わず玉座から立ち上がって大きな声を出した。
 それもそのはず、秦(しん)は諸国の中でももっとも力が強く、全中国をその傘下に納めてしまいそうな勢いで領土を拡大し続けているのだ。そんな強国との同盟が対等なものであるはずがない。手を結ぶということは、とりもなおさず魏(ぎ)が秦(しん)の属国になることを意味している。

 だが張儀(ちょうぎ)は落ち着いて答えた。
「はい、秦(しん)です。秦(しん)はこの国とは韓(かん)や楚(そ)をはさんだ向こうにあります。秦(しん)と同盟すれば、韓(かん)や楚(そ)は留守中に背後から攻撃されるのを恐れて魏(ぎ)に軍を差し向けることができなくなるでしょう。
 魏(ぎ)の国民も、そして国王であるあなたも、それだけ枕を高くして眠れるようになる、というわけです」

 国王はさんざん迷ったものの、秦(しん)と同盟を結ぶことに同意した。自国が滅亡することよりも、国民が安心して暮らせる社会であることを望んだのである。
 会社でも、部下の将来のことなどさておいて、まず自分の保身に走る人間はいくらでもいるが、自分の身分よりも下の人間の生活をまず考える者などほとんどいない。それを思うと、この王の態度はりっぱである。

 それにしても、枕の高さと安心感とは何の関係もないはずなのに、「枕を高くして寝る」という表現はいかにも安心している感じがよく出ている。張儀(ちょうぎ)は政治的な才能ばかりでなく、文学的な才能も豊かだったようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?