[九条林檎・桃子SS] それはわたしにないものだから

「林檎ちゃんはさあ」
背後から間延びした声が聞こえる。林檎と呼ばれた女性はキーボードを打つ手を止め、僅かに画面から視線を外した。
「どうして配信者なんかやってんの?」
林檎の表情がほんのすこしだけ緩む。そうしてそ疑問に答えるため、疑問の主である女性、桃子の方へと体を向けた。
「そんなことを言って、貴様ももう十分わかってるんじゃないのか?」
桃子はソファに寝そべり、スマートフォンから目を離さないまま答える。
「林檎ちゃん、質問に質問で返しちゃダメなんだよ?知らないの?」
桃子の態度はいつもこんな感じだ。それでも林檎はこの不遜な友人が不思議と嫌いではなかった。

「領主の家系たる九条家の長女、九条林檎に対してそんな態度を取るのは貴様だけだ。まったく、貴様は変わらんな」
「林檎ちゃんって友達いないんだね」
ははは、と軽く笑って林檎は再び画面に向かう。桃子は先程から手元以外動くことなくソファに体重を預けている。桃子の口から微かにこぼれたいいなあ、という言葉は、林檎には届かなかった。二人だけの部屋は再び静寂に包まれる。二人ともが、お互いが出会った数ヶ月前の出来事を思い出していた。

****

近所にある古びた屋敷に人が引っ越してきたのを桃子が知ったのは、冬の始まりが迫っていることを感じさせる肌寒い夜のことだった。屋敷といっても豪邸というほど大きくはないが、それでも離れと合わせて十分な部屋数はあるだろう家だ。数年前に持ち主が亡くなってから、その屋敷は空き家だったが、月末に定期的に最低限の手入れはなされているようだった。桃子はよく自分の部屋と駅を行き来するのにこの屋敷の敷地を勝手に通っていた。だからこの日も、桃子の足は敷地内の建物と建物の間の帰り道をほぼ無意識に辿っていた。

不意にドアノブの回る音が静かな夜に響いた。桃子は叫びそうになるのを堪えて音のした離れの建物を見る。ドアが開き、出てきたのは長いアッシュブロンドの髪が目を惹く美しい女性だった。どこか妖しい雰囲気をまとったその女性は、桃子に気づくとすこしだけ目を見開いて、そのあと落ち着いた声で誰何した。
「誰だ貴様、泥棒か?なら残念なことだが、我が屋敷にはろくな物が無いぞ」

「す、すみません。ここに人が越してきたことを知らなくて。ここを通ると近道なんです。ごめんなさい、もう通りません!」
桃子はそれだけ叩きつけるように言うと、門とは反対側、家へと続く獣道へ向かって駆け出した。敷地を抜け、そこから一人暮らしの家にたどり着くまで桃子は走り続け、家に入って鍵をかけるとようやく一息つく。
「はあ、びっくりした。やばかったな、ってか明日からあそこ通れないじゃん、だるい」
それにしても綺麗な髪だった、と桃子は自分の髪を弄りながら考える。これからは回り道をしなければならないからその分早く家を出なければならない。起きる時間は見直すとして、明日のバイトは午後からだから適当な時間に起きようと、取り留めのないことを考えながら、桃子は眠りについたのだった。

翌朝、駅に向かう道で桃子が見たのは、ゴミ捨て場の張り紙を睨んでいる昨日の女性だった。美しく輝く髪はこの平和な住宅街には場違いにも感じられる。このままこっそり後ろを通るか、迂回するか逡巡していると、振り向いた女性と目が合った。
「ああ、貴女は昨日の。驚かせてしまったようで申し訳ありません。近頃引越してきたばかりなのです」
昨日とは打って変わって丁寧な口調と柔らかな物腰に、桃子は慌てながらも答える。
「いえ、こちらこそすみません。もう通りませんので」
「別に構いませんよ。おそらくすぐに出て行くことになるでしょうから。一時的に住ませていただいているようなもので。ところで、ひとつ伺いたいのですが」
やけに丁寧な口調で質問され、桃子は戸惑いながらもなんとか答えを返した。
「えー、あー、なんでございましょう?」
「ああ、畏まっていただかなくてよいのです。私の方が若輩のようですし。このゴミ捨て場なのですが、瓶類はどこに置けばよいのでしょう」
なるほど、と桃子は合点がいくと、改めて相手の外見を観察する。確かに若いようにも見えるが、印象としては大人びていると言った方が適切だろう。何より自らの容姿に自信があった桃子は、少しむっとして、初対面の相手にするには少々棘のある返答をした。
「え、あたしそんなに年上に見えます?結構若く見られるんですけど。それを言うならそっちこそ堅すぎでしょ。あ、瓶類はそこの後ろにケースがあるのでそこに」
ゴミ捨て場の衝立の後ろを指差す。たしかにこの地域のゴミ出しは桃子が引っ越してきた時にも難儀した記憶があった。
「なるほど、ありがとうございます。私はまだ17なので、おそらく貴女よりは年下かと。でも、たしかにご近所さんに対してだと堅すぎでしたね。まだ色々と慣れていないのです」
その返事を聞いて桃子は驚いた。少しだけきまりの悪い気持ちになったが、相手が相応に年下ということもあり、口調は先程より柔らかくなっている。
「えっ、まだ十代?やば。でもあたしもそんなに年違わないですからね。慣れない、って海外から来たとかですか?」

桃子は日本人離れした髪と整った目鼻立ちを遠慮なく見つめていた。この大人びた女性がまだ高校生と聞いて、桃子の中で急速に気持ちが緩んでいく。
「ええ、そのようなものです。言葉はおそらく問題ないと思いますが、敬語だとどうしても堅くなってしまって。」
「んー、それならタメでもいいよ別に。あとやっぱりあそこ通っていい?あそこ通らないとかなり遠回りなんだよね」
もはや桃子は普段通りの話し方になっていた。最初の印象の反動か、あるいは見た目の美しさゆえか、それとも丁寧な物腰か。桃子は初対面の女性に、すでに少しばかりの親近感を覚えていた。
「先ほども言った通り、私はかまいません。おそらく2週間後にはここを出ているでしょうから。ただし鉢合わせても驚かさないでくださいね」
最後の言葉には少しだけ真剣さがこもっていた。おばけでも怖いのだろうか、などと考え、その様子を想像して、やってみても面白そうだなどと無駄なことを考える。そしてようやく自分が駅に向かう途中だったことを思い出した。

「ありがと。じゃああたし行くね。あ、あたしは桃子。短い間かもだけど、知らない人が自分ち通るのちょっと気持ち悪いでしょ」
これで知り合い同士だから通っても問題ないだろう、と桃子は自分の基準で帳尻を合わせる。
「私は九条林檎と申します。お呼び止めしてすみませんでした。それではこれからよろしくお願いします」
じゃあ、と桃子は手をぞんざいに振ると、駅の方向に向けて歩き出した。また出会ったのには驚いたが、あの道を通れるなら問題はない。

(林檎ちゃん、ね。美人だったなー)
桃子は林檎のスタイルのいい立ち姿と整った顔立ちに、自分もあんな風だったらもっとうまく行くのだろうか、などと考える。それにしてもだるい、というぼやきと今朝の出来事についての考え事を頭の中で往復しながら、桃子は当座の生活資金を得るために緩慢な時間を過ごすのだった。

****

その夜、九条林檎は昨日の夜から今日の朝へと続く一連の出来事を思い出していた。林檎は人間ではない。正確には、吸血鬼と人間のハーフだ。吸血鬼が住む魔界から、タレントとなるために人間界に渡ってきた。元いた魔界では名門九条家という領主の家系の長子だったが、少々無理を言って飛び出してきたのだ。

林檎は公開タレントオーディションに参加していた。選考に残った十数人の候補者が、2週間かけてライブ配信を行い、人気を競うのだ。昨日がその配信の初日で、薄々わかっていたことだが、やはり林檎のところには思うように人が集まらず、苦戦の予感がしていた。
(何かせめて、大衆の耳目を引けるような機会があればいいのだが。そもそも我は大衆受けするタイプでないのだ。認知する者の母数を増やしていかなければ、勝ち上がるのも難しいし、勝ち上がったとしても活動が制限される)

目下の考え事はそのオーディションのことだが、林檎の考えは昨晩会った人間へと逸れる。配信の終わりに、敷地に人間が入り込んでいたことにはいたく驚いたものだが、今朝また会うことになるとは思っていなかった。
(桃子、といったか。ああいったのが今時なのだろうな。整った顔立ち。それに愛嬌。憎めないというか、振る舞いは大雑把に見えるがなんだかんだで愛されるタイプなんだろう)
林檎は桃子との会話を振り返っていた。言葉が固すぎたというのは否めないが、貴族との会話ほど格式張らず、とはいえ領民との会話ほど威厳を含ませた言い方もできないとなると、林檎にとっては慣れないことだった。配信では領民に接するように話してはいるが、普通の敬語にも慣れていく必要があるかもしれない。

(まあ、とはいえこのままでは2週間どころか1週間後の予選で落ちてしまう勢いだがな)
オーディションでは1週間後に中間発表があり、そこで候補者は5名ほどに絞られる。林檎は現状その上位5名に入れていなかった。
そういえば、と林檎は目線を床の方に向ける。床にはカエルのような姿をした生き物が林檎を見上げていた。この生き物は魔界から連れてきた使い魔で、林檎は人間界の家事などをこの使い魔たちに行わせていた。
「昨日、この屋敷を人間が通り抜けただろう?あれ貴様ら分かっていたか?分かっていたならいい。それであの人間は普段からここを通るらしい。一応、姿を見られないよう注意するように、皆に伝えておいてくれ」
林檎の言葉を受けた使い魔は甲高い声で答える。
「カシコマリマシタ」
この使い魔達は知能が高く、林檎の生活の大いな助けになっていた。

「さて」
とりあえずは目下のオーディションに向けての対策だ。配信の方向性は固まっていたが、やはり何か一つでも人を呼び込む切っ掛けが欲しい。林檎は月明かりに照らされながら思索を進めるのだった。

****

冬が深まっても、桃子の毎日は代わり映えのしないものだった。むしろ予定外の支出が重なり、バイトを増やさなければならなかった分、桃子にとっては日々がより色あせたように感じていた。唯一変わった点といえば、先日知り合った美人と時折顔を合わせ、雑談をする仲になったことくらいだ。

白く息を吐きながら、桃子はいつものように屋敷を横切る。今日はたまたま屋敷の主、林檎の姿が目に入った。急いでいない時は挨拶がてら少しばかりの立ち話をするのが二人の常だった。桃子が声をかけるより先に、桃子に気づいた林檎が口を開く。
「ああ、桃子さん。おはようございます。今日もお仕事ですか」
「林檎ちゃんおはよ。今日は午後からなんだけど、お買い物とかしちゃおうと思って。林檎ちゃんは?」
「今日は屋敷でお仕事です。最近は忙しくなってしまって」
桃子は林檎の前で足を止め、話をする姿勢を見せている。林檎の様子も、特段急いでいるようではなく、ゆっくりと朝の散策を楽しんでいるという雰囲気だ。桃子はふと、思いついた疑問を口に出す。
「そういえば林檎ちゃん、前は2週間で帰るとか言ってた気がするけど、もう1ヶ月くらい経ってない?」
「ああ、実はもらえると思っていなかった仕事が決まったんです。本当は仕事が決まらなければ帰るつもりだったのですが、ありがたいことに縁に恵まれて。そのおかげで忙しいんですけどね」
そう言う林檎は少し嬉しそうな表情だ。桃子もつられて少し笑顔になる。
「そうなんだ。よかったね。じゃあしばらくはここにいるんだ」
「ええ。とはいえ年末年始は帰省しようと思っていますが。桃子さんは実家には帰るんですか?」
桃子は少し言いよどんでから答える。
「んー、親には無理言って出てきたから、年末には帰らないかな。仕送りとかもないからその分頑張って働いてるんだけど、年末年始も多分バイトかな」
林檎が言葉を選んでいると、桃子はそれを察して言葉を続ける。
「まあ選んだのは自分だし、それは全然いいんだけどね。自分の目標のためでもあるし」
「なるほど、それは分かります。私も似たようなものですから。仕事が決まったとはいえ、うまくいく保証はないんですよね」
桃子はその林檎の様子を意外に思って見ていた。目の前の育ちの良さそうな女性の顔には、将来への少しの不安と諦めとが混ざっているように見える。他の人が見てもおそらくは分からないだろうが、桃子にはそれが分かった。桃子自身に同じ感情の心当たりがあったからだ。とはいえそれが具体的にどんなものであるかは、桃子にはもちろん知りようがない。代わりに少し親しみを増した声で答える。
「あたしはそんなにネガティブに考えてないけどね。林檎ちゃんは暗すぎるんじゃない?」
「随分と辛辣ですね」
そう答える林檎も気を悪くした様子はない。林檎の反応に満足すると、桃子は駅に向かって歩き出す。
「それじゃ林檎ちゃんまたね」
「ええ、ごきげんよう」
桃子はぞんざいに手を振りながら、林檎の挨拶を背に受けて歩く。その足取りは、心なしか普段よりも軽くなっているような気がした。

****

林檎がオーディションを勝ち抜き、デビューすることになったのは1週間以上前のことだ。桃子の言う通りこちらの世界に来てからは1か月経っていることになる。林檎の現在の活動は専らオーディション時から続くライブ配信が中心で、デビューしたとはいえ基本的には自らの力で人気を集め、仕事を得なければならない。事務所からのバックアップは活動の基盤としては悪くなかったが、デビューしたからといってすぐにのし上がれるほどの盤石な支援体制が整っているわけではない、ということもまた事実だった。

今後の活動について、考えることはいくらでもある。それでも、林檎は日々の配信を楽しみにしていた。さらに言えば、今後はデビューではなく、楽曲や出演権などの仕事を獲得するためにオーディションに参加することにもなっている。ライブ配信を行っているプラットフォームで、配信を通じて競い合い賞品を獲得するイベントが多数開催されており、それらにも参加していく予定だ。さらなる仕事を勝ち取るため、そして多くのファンを獲得するため、林檎は配信でできることの幅を増やすべく試行錯誤していた。

今夜も林檎は配信を通じてリスナーとの歓談を楽しんでいる。事前に準備していた話題やネタもあるが、林檎はリスナーとのやり取りで生まれた思い付きなども積極的に取り入れていく。久々に自腹を切って買ったバイノーラルマイクを使って話していると、林檎は不意にあることを思いつく。そしてそれを即座に実行に移した。
「えーっと、みなさんこんばんは。今右側から話しかけてます。どうですか?よく眠れそうですかー?」
普段とは声色と口調をがらりと変え、か細いささやくような声でリスナーに呼びかける。リスナーからはそれっぽいという同意のほかに、新キャラか?というコメントも書き込まれる。
「どうだ?我けっこうよくできてたんじゃないか?『よくいるバイノーラル配信者』っぽいだろう?我は多才だからな、こういうモノマネも得意なんだ」
そしてもう一度声色を切り替える。この声の持ち主の名前は何にしよう、と考えていると、ふと今朝会った女性を思い出した。
「えーと、バイノーラル配信者のももです。みんなとこうやってこしょこしょおしゃべりをするのが好きです。よろしくおねがいしまーす」
林檎が声の調子を戻す。
「なんてな。今後バイノーラル配信をするときはももに会えるかもしれんぞ?こういうの好きなやつはいるか?よかったな、ははは」
その後も林檎の歓談は続いていった。

配信を終え、林檎は配信場所にしている屋敷の離れから母屋に戻るため、離れのドアを開けた。林檎は先の配信を頭の中で振り返っていたが、敷地内に人影を見つけるとそちらに目を向ける。桃子が敷地を通り抜けようとしていた。
「ああ、きさ…桃子さん。こんばんは、今日は遅いのですね」
林檎は配信と同じ口調で話そうとして慌てて口調を修正する。桃子は少し怪訝な顔をしたが、表情を戻して足を止めた。
「林檎ちゃん、1日2回も会うなんて珍しいね。また通らせてもらいまーす」
それだけ言うと桃子はふりふりと手を振ってまた歩き始めた。林檎も特に呼び止めはせず、そのまま母屋に向かう。
(しかし、名を借りたのは微妙だったか…?まあ手近に思い浮かぶものがなかったのだ、仕方あるまい。それにしても)
林檎が母屋のドアに手をかけながら、敷地を出ていく桃子の背に視線を向ける。
(奴があんなふうにバイノーラル配信などやっているところなぞ想像できんな。まあ向こうからしたら我がそんなモノマネをしていることこそ想像できんだろうが)
林檎はそのまま母屋に入る。林檎は考え事を続けながら、明日に備えて就寝の準備を進めるのだった。

****

1月の空気は、いつもより爽やかな心地がする。桃子は、それが年が明けることに伴うただの錯覚だと思いつつ、その錯覚にふさわしい晴れた心持ちで道を歩いていた。今回の年末年始は、バイト漬けになるかと思ったらそれほどシフトが入れず、かといってゆっくり休みを満喫できるというほど暇でもなかったので、どこか中途半端な過ごし方になってしまった。それでもこうして明確な「区切り」を感じるのは、やはり街の人々が漂わせる新年の空気を浴びていたからだろうか。まだ年始が終わっていない人々がいない分普段より空いた電車に乗り込み、いつものようにスマートフォンを取り出す。何気なく、流れる言葉の数々を眺めていると、どこかで聞いたような名前が目にとまった。『九条林檎』。

桃子がその名前の主に実際に会うことになったのは、その出来事から数日たった午前のことだった。時間に余裕があった桃子は、林檎の姿を見ると普段より高い声で話しかける。
「あっ林檎ちゃん!久しぶり」
「ああ、桃子さん、ごきげんよう」
そういつもの調子で答える林檎に、桃子は思わず吹き出してしまう。笑いを抑えている桃子の様子を訝しみながら、林檎は丁寧な口調で尋ねる。
「…どうしたんですか?」
桃子がその答えを聞いてまたしばらく笑う。ひとしきり笑った後、桃子がなおも笑いをこらえながら答える。
「林檎ちゃんふだんは我とか言わないのにねー」
その答えを聞いて、林檎は桃子が笑っている理由を理解した。

「いやね、知ったのは偶然なんだけど。昨日の配信見たよ。バーチャルタレントって初めて知ったけどすごいんだね。まんま林檎ちゃんなんだもん」
桃子が見たのはバーチャルタレントとして活動する林檎の姿だ。バーチャルの世界で3Dの体を得て動き回る林檎の姿は、まさに目の前にいる林檎そのものというように見えた。もちろん姿に差異はあるし、口調も全く異なるのだが、不思議とこれが普段会う林檎だという確信があった。
「だから別に無理して丁寧に話さなくていいよ。それはそれでおもしろいからどっちでもいいけど」
桃子は反応を期待するように林檎の顔を見つめている。林檎は、はあ、とため息をついたあと、一拍置いて先ほどとは異なる低めの声で面倒そうに口を開いた。
「まさか貴様に知られることになるとはな。やはり名乗ったのが間違いだったか。我も有名になったものだ」

「やっぱり変な喋り方だね。そういうキャラ設定なの?」
あえて意地の悪い質問をする桃子の言葉に林檎はなんでもなさそうに答える。
「こっちが素だ。貴様配信聞いていたんじゃなかったのか?我は領主の娘だ、相応に威厳ある言葉遣いで然るべきだろう」
「だからそういう設定でしょ?」
なおも挑発するような桃子に対し、林檎はまたひとつ小さくため息をつく。
「別に信じろとは言わん。だが口調を偽る理由はなくなったんだ、これからはこっちでいかせてもらおう」
「まあいいけど。でも普通そんな喋り方する10代いないでしょ、ってなると思うよ?」
「だから貴様に対してわざわざ口調を変えていたというのに」
もはや林檎の応答は今までの言葉遣いからすると雑とも言えるものになっていた。だが同時に今までで一番自然体な話し方だと桃子は思う。
「そっちのほうが林檎ちゃんらしくていいかもね。それにしてもタレントさんかあ、林檎ちゃん美人だし、あんなにおっきいお屋敷に住んでるのも納得かも」
少し羨む気持ちが声に乗ってしまったような気がしたが、林檎はそれも意に介さず、今度は自虐的な響きでもって答えた。
「あれは名前だけだ。別に売れているわけでも、売り出されているわけでもない。単に事務所がついているからそう名乗っているだけでな。実際は地下アイドルとかの方が稼いでいるんじゃないか?あの屋敷も借り手がいないから安価で借りているだけで、部屋なぞ持て余しているしな」
「え、部屋余ってるなら貸してよ。じゃあ林檎ちゃんはかけだしってこと?」
「そういうことだ。仕事も自分で取ってこなければ給料も入らんからな。まったく、これでは売れるより先に生活が行き詰まる」
もはや愚痴にしか聞こえないぼやきを聞いて、桃子は改めて目の前の女性に親しみを覚えた。上品な態度と言葉遣いの令嬢でも、威厳ある領主の娘でもない、自分と同年代の夢見る女性がそこにいるように思える。桃子は思わず自分をそこに重ねていた。
「じゃああたしと似たようなもんなんだね」

林檎が無言で桃子を見つめ、続きを促す。桃子は口を滑らせたことを若干後悔しながら、秘密を告白するような口調で続きを口にした。
「あたしさ、実はモデル目指してるんだよね。何回かファッション誌に載ったこともあるんだけど、まだ全然それだけじゃ生活できないし。バイトとかして何とかしてるけど、定期的に仕事貰えるようにならないと続けられないしね」
桃子は自分の言葉が湿っぽくなっていたのを自覚し、声のトーンを元に戻して続ける。
「だから林檎ちゃんとあたしは案外似てるのかなって」
林檎は桃子が話している間、少し驚いた風にしていたが、話し終わるころにはわずかに微笑んで聞いていた。
「そうだな。そうかもしれん」

****

「そういえば、桃子の名を借りたことがあったな」
林檎が居間でモニタに向かいながらつぶやく。つい先日も桃子という名を出した気がするが、桃子からその件については何も言われなかったのでおそらくその日は見ていないのだろう、などと考えていると、いつの間にか部屋にいたらしい、妹の蜜柑が声をかけてきた。
「お姉さま、桃子様というのはよくここの敷地を通られているというあの方でしょうか?」
この広い屋敷に住んでいるのは林檎のほかには妹の蜜柑、そして何匹かのカエルのような姿をした小さな使い魔、タグーたちだけだ。蜜柑はともかく、タグーの姿を見られるわけにはいかないので、桃子については事前に伝えていた。蜜柑はそのことを思い出したのだろう。
「そうか、蜜柑は直接は会ったことがなかったか。そう、奴は時折屋敷を通っているんだが、つい先ほど我がタレントをしていることがバレてしまってな」
ちなみにタグーたちはちょっとした魔術の応用で桃子や他の訪問者の気配を察知して姿を隠している。蜜柑が桃子と会っていないのは単に偶然だった。
「お姉さまも有名になったのですね。私も桃子様には一度お会いしてみたいですわ」
「それほど有名になったとは思えないんだがな。桃子にはデビュー前に会ったから本名そのまま名乗ってしまったんだ。たまたま名前を見かけたのだろう」
蜜柑は林檎と話すときはいつも目を輝かせて熱心に林檎の話を聞いている。姉としては妹に慕われているのはうれしい限りだが、こうもまっすぐな瞳で期待を寄せられるのはどうしてもくすぐったい気持ちになってしまう。

「そうなのですね。桃子様のお名前を借りたとおっしゃっていましたけど、なにかお世話になったのでしょうか?」
「ああ、それは配信で何度か名前を使わせてもらったんだ。蜜柑と同じで架空の人物のモノマネということで名前を借りてな。結局蜜柑がこちらに来てからは我のモノマネの機会はほとんどなくなったんだが。いつもすまないな」
「いえ!お姉さまの配信にご一緒させていただけるのはとっても楽しいです!」
林檎が配信を始めたころ、蜜柑という人物は林檎が妹のモノマネをした人格として配信に登場していた。しかし今では、蜜柑本人が魔界から林檎の屋敷に来たことで、時折配信に登場する蜜柑という人物は「本物の」蜜柑であることがほとんどだ。出番があるかわからずとも配信に同席してもらっているのを申し訳なく思う気持ちもあったが、蜜柑の反応を見る限りは杞憂だったようだ。
「ということは、私と同じように桃子様もそのうち配信に出られたりするのでしょうか?」
蜜柑がふとした思い付きを口にする。林檎はその様子を想像して苦笑を漏らすと、その考えをやんわりと否定する。
「それはさすがにないだろう。確かに我とも蜜柑ともまったく違うから面白くはあるだろうが、蜜柑のように身内でもないしな。桃子という名前は定着してしまったし、概念モノマネの名前として借りるだけにしておこう」
おそらく桃子もそんなに林檎の配信を熱心にチェックしないだろうし、仮にバレても毒を吐かれはするかもしれないが、本気で怒られるようなことではないだろう。林檎はそう考えると、溜まっていた作業のことは脇に置いて、蜜柑との話の続きを楽しむのだった。

****

月の始めはいつもシフトが不安定になる。バイトまでの空き時間、桃子はコンビニで立ち読みをして時間をつぶすことにした。中途半端な時間ができるといつも決まったコンビニで立ち読みをするのが桃子の習慣だ。そのコンビニである理由は単にバイト先の近くでファッション誌がそれなりにおいてあり、立ち読みができるからというだけのもので、立ち読みをする理由は将来の目標に向けての情報収集だ。

いつものように、自費で買っている雑誌を除いて、有名なものから順にチェックする。いくつめかに手に取った雑誌を裏返して、桃子は思わず驚きの声を上げてしまった。慌てて周りを見渡し、幸いにも周囲に人がいなかったことを確認すると、再び手に取った雑誌に目を落とす。裏表紙は最近親しくなった知人、九条林檎が紙面の全面を占めていた。駆け出しのタレントと言っていた林檎が全国でも指折りのファッション誌の裏表紙を飾っている。その事実を受け止めきれぬまま、美しく描かれた林檎の表情から目を滑らせる。次に桃子の目にとまったのは「祝 専属モデル」の文字だった。専属モデル。桃子が今一番欲しい肩書きだ。いくつもの疑問と目の前の事実で混乱した頭で、なんとかバイトの時間が迫っていることを思い出すと、渦巻く頭の中の声すべてに一気にふたをして、手にした雑誌をレジに持っていく。その日のバイトは全く手につかず、店長に叱責されたうえそれすら上の空で受け答えしていたら今度は心配され、桃子はいつもより早い時間に帰路につくことになったのだった。

帰宅した桃子は真っ先に購入した雑誌を取り出した。裏表紙にはコンビニで見た時と変わらない、美しい目でこちらを見つめる林檎の姿があった。専属モデルという表記もある。プロフィールに目を通して、今度は中を開き紙面で林檎の姿を探し始める。あらかたのページをめくり終えた後で見つけた林檎の掲載ページは、見開きでほかのページとは全く異なる存在感を放っていた。
「何が似たようなもん、って感じ。やっぱり林檎ちゃんすごいんじゃん。はあ」
持っていた雑誌をテーブルに置き、桃子はベッドに倒れこむ。そして小声でつぶやいた。
「ずるいよ」

気持ちの整理がつかないままその日は結局寝てしまった。翌日、早めに目が覚めた桃子は林檎のことを考えながら早めに家を出た。そしていつも通り屋敷の庭を通ろうとすると、そこには今一番会いたくない人物がいた。
「げっ」
そう言って回れ右をして立ち去ろうとする桃子に、林檎はいつも通りの素の声で言葉をかけてくる。
「ごきげんよう。げっとはなんだ貴様。なぜ逃げる」
見つかったのでは仕方ないと諦めて、桃子は踵を返すと林檎のもとへ向かっていく。
「専属モデルになったんだね。おめでとう」
桃子の棘のある祝福の言葉に林檎は少し戸惑いを覚えながら、ひとまずは礼を返す。
「ああ、もう知っていたか。礼を言おう。紙面を見たか?我なかなか麗しかっただろう?」
林檎の普段の物言いが今日の桃子にはやけに気に障った。
「見たよ。綺麗だった。自分は大したことない、って言ってたけど、林檎ちゃんやっぱりすごいんじゃん。謙遜?」
「今回は運よく出させてもらったが我なんてまだまだだ。タレントとしてまだ何者でもないのは前から変わっていない。本当にそんなに大したものじゃあないんだ」
「じゃあ専属モデル目指して頑張ってるあたしは大したことない林檎ちゃんよりもっと大したことないってことだね。貴族様の言うことは違うね」
桃子の言葉に明確な棘と嫌味が混じる。林檎はその様子を見て自分の失言に気づいた。
「すまない、そういう意図で言ったのではないんだ。我が専属モデルになれたのは実力でもなんでもないんだ」
「実力でもなんでもなくてもあたしは専属モデルになりたいけどね」
「とにかく、あれは単に事務所のコネだ。オーディションの景品として掲載枠をもらったようなものだ。景品だからギャラも入っていないし、今後どれくらい出してもらえるかもわからん。我の麗しさなら実力でモデルになれてもおかしくないが、今回のはまったくのもらい物だ」
「そこは普通自分なんてまだまだだって言うんじゃないの」
桃子はしばらく林檎を見つめていたが、それ以上突っかかるのを諦めてため息をついた。
「はあ。確かに林檎ちゃんなら実力で取れててもおかしくないか。実際雑誌に載ってた林檎ちゃんすごい綺麗だったし。コネなんてずるいと思うけど実際そんなもんなのかもね」

林檎は少し混乱しつつも、数少ない知人を傷つけたことに申し訳ない気持ちになっていた。
「なんにせよ、先ほどはすまなかったな。無神経な物言いをした。許してくれとは言わんが、謝らせてくれ」
「ねえ、じゃあ許してあげる代わりに一つお願いしていい?」
桃子の言葉には先ほどまでの棘はない。林檎は桃子の突然の言葉に怪訝な顔を見せたが、うなずいて続きを促した。
「林檎ちゃん屋敷の部屋余ってるって言ってたでしょ?どこでもいいから余ってる部屋に住ませてくれない?あと雑誌の人にあたしのこと紹介して」
「二つになっているという突っ込みは置いておいても、紹介なんてできる立場じゃないぞ。さっきも言ったが我は単に事務所から枠をもらっただけで、何ら影響力を行使できる立場ではない」
「じゃあ住ませてくれるだけでもいいよ」
「それはまあできなくもないがちょっとな。というかなんでわざわざ我が屋敷に住む必要がある?」
林檎の当然の疑問に桃子はため息をついて答える。
「すっかり忘れてたんだけど、今月で賃貸の契約更新しなきゃいけないみたい。家賃も上がるって。更新料と上がった家賃で生活がままならないので、大したことない桃子は夢をあきらめて実家に帰らなければいけません」
最後の方は明確に林檎への当てつけだ。だが内容自体は事実で、今月中に家計をどうにかしないと後がないのは確かだった。
「もちろん少ないけど家賃は入れれるし、家事の手伝いもするよ。部屋を遊ばせておくよりいいと思うんだけど」
その言葉に林檎は真剣な表情で考え込む。しばらくのちに林檎は口を開いた。
「まあ、こうなったのも何かの腐れ縁だろう。それに我の一存で貴様の夢がついえるみたいな言い方をされてはな。ただし条件が二つある」
桃子が疑問を浮かべて林檎が話すのを待っている。しかし林檎はその条件を教えてはくれなかった。
「条件については後で詳しく説明しよう。それより貴様、今日は時間に余裕はあるのか?」
そう言われて桃子は時間を確認する。長く立ち話をしていたせいか、バイトにはそろそろ駅に向かわないと間に合わない時間になっていた。
「やば。ありがと。今日は急ぐね。じゃあまた後で…って連絡先交換しないと連絡取れなくない?」
桃子は林檎と連絡先を交換するとバイトへ向かう。いつの間にか感情の整理はついていた。なんとはなしに住ませてなどと言ってみたが、なぜか前向きに考えてくれているようだ。懸念事項に一気にめどが付いて、桃子はいつも通りの桃子に戻っていた。そして今日のバイトに、心配して出迎えるであろう店長について考える。
「はあ、だるいなあ」

****

「さすがに肩入れしすぎだろうか」
桃子を住ませてもよいと一度は言ったものの、林檎はあらためて本当によいのか考えてしまっていた。しかし、何度考えても、いくつか条件を飲んでもらえれば住ませるのは可能であり、可能であるならば住ませてやりたいという結論になる。同情だろうか、と林檎は自分に問う。それも否定はできなかった。しかしそれ以上に、林檎は桃子の姿に自分を重ねてしまっていたのだ。夢を諦めて、という言葉を発した時の桃子の声は、かつての自分の声のようであり、あるいはこの生き方を選んでいなかった場合の自分の声のように思えた。そんな桃子を見捨てることができなかったのだ。

それに、と林檎は理屈を付け加える。事情を知っている人間がいた方ができることの幅が広がるのは確かだし、わずかとはいえ家賃収入もありがたい。問題は、と林檎は床を見下ろした。小さなカエルの使い魔が食器を運び食事の準備をしている。この普通でない家を、そして化け物である自身を桃子が受け入れるかどうかだ。
ちなみに林檎が桃子との生活を受け入れられるかについては特に心配はしていなかった。その直截な物言いと傍若無人な振る舞いは自分だったらと恐ろしさを感じることもあるが、上位存在である林檎にとっては些末な問題だ。
いずれにせよ今月中に決めなければならないのだ。引っ越すにしても、家を引き払うにしても、その決断は早い方がいい。そう考えると林檎は、まだメッセージのない連絡先にいくつかの日付を書き送るのだった。

呼び鈴が鳴る。桃子に伝えていた時刻から15分が経過していた。林檎は玄関を開け、桃子を迎え入れた。
「林檎ちゃん、こんちゃー。お邪魔するね」
桃子は屋敷の内装に多少興味をひかれたようで、視線を様々に動かしている。林檎はリビングへと桃子を招き入れた。
「紅茶でいいか?」
林檎が紅茶を淹れていると、妹の蜜柑がリビングに入ってきた。蜜柑は桃子がいるのを見ると丁寧に挨拶をする。
「ごきげんよう。桃子様ですね。私は九条林檎の妹、蜜柑と申します。よろしくお願いいたしますわ」
「桃子でいーよ。たまに林檎ちゃんと一緒にいるの見かけてたけど話すのはじめてだね。蜜柑ちゃんっていうんだ。よろしくね」
「お姉さまのご友人を呼び捨てするのは恐れ多いので、桃子さんとお呼びしますね」
林檎は蜜柑の分の紅茶も淹れてテーブルへ持っていく。それを見て蜜柑は自分がいてもよいと理解したようだった。林檎は早速とばかりに本題を話し始める。
「それで、今日は貴様がここに住むための条件を話そうと思う」
「メッセージで送ってくれればよかったのに」
「それだと意味がないんだ。貴様我のタレント活動について知っているな?」
桃子がうん、と相槌を打つ。
「では我が魔界出身の吸血鬼と人間のハイブリットであることも知っているな?」
「そういう設定でしょ?」
「設定ではない。今から証拠を見せよう。その前に聞くが、我は貴様ら人間から見ればある種の化け物だ。もしそれが本当だったとして、それでもここに住むつもりはあるか?」
林檎が真剣に話している様子を見て、桃子もすこし考えるそぶりをする。しかしどこまで本気に捉えたのか、桃子の返事は思ったより軽いものだった。
「うん、あたしそういうのそんなに気にしないタイプだし」
蜜柑は二人のやり取りをテーブルの端の椅子にちょこんと座って見ている。林檎はため息をついてから桃子を見つめる。その場の空気が張り詰めていくのがわかる。

「では証拠を見せるが、後悔はするなよ?怖くなったら逃げるといい」
林檎の瞳に妖しい輝きが宿る。骨の軋むような音がして、林檎の背から蝙蝠のような翼が生えてきた。林檎の口には先ほどまではなかった長い牙が生えていた。そのまま軽く地面を蹴ると、林檎はふわりと宙に浮き、そのまま少し動いて見せた。長い髪がまるで重力などないかのようにふわりとたなびいている。動きが控えめなのは室内だからだ。最後に手のひらを前に出すと、そこからどこからともなく蒼い炎が現れた。
一連の出来事を桃子は驚いた様子で見ていた。炎が消え、着地すると翼や牙が消えていき見慣れた林檎の姿に戻った。それで桃子はようやく我を取り戻したのか、やば、とつぶやいた。
「分かってもらえたか?」
「さすがにこんなの見せられたらね。てかほんとに林檎ちゃん化け物じゃん。吸血鬼ってことはあたしの血を吸わせろーとか、そういう条件?ちょっとだったらいいけど、血を吸われて殺されるのはさすがに嫌だよ」
「ずいぶん冷静だな。もっとこう、わーとか怖いーとかないのか」
「びっくりはしたけど、そんなに怖い感じはしなかったよ?」
「我これでも威圧するようにやったんだがな」
林檎が少し気落ちしたように話す。それを見た桃子は笑いを漏らした。
「怖くないのはそういうところじゃない?林檎ちゃんが悪い人じゃないのはあたしにも分かるよ」
「人じゃないって話をしたばっかりなんだが」
「それで、あたしは林檎ちゃんに血をあげればいいの?」
会話のペースはすっかり普段の調子に戻っている。
「まあ我にとってはすべての人間は血を吸うべき食糧だが、こちらに来てからは血を吸っていない。知らん奴を襲ったら普通に捕まるしな。そして貴様が同居人になるなら食糧の枠から外そう」
「捕まっても別に大丈夫じゃないの?吸血鬼っていうくらいだから強いんでしょ?」
「もちろんおとなしく捕まりやしないが、こちらで活動できなくなるからな」
なるほどね、と桃子は納得した様子で頷く。
「じゃあ、条件ってなんなの?」
「こんな化け物と一緒に住むことを許容できること、が一つ目の条件だ」
林檎は目で答えを促す。桃子は何ともない様子で答える。
「別に取って食おうってわけじゃないなら全然いいよ。さっきも言ったけどあたしそういうの気にしないタイプだから」
人間が人間でない存在と住むことに対して、気にしないタイプという感想で済ませるのはどうなんだと思わないでもなかったが、本当に気にしていないような様子に林檎は好感を覚える。

「一つ目ってことは二つ目もあるの?」
林檎が少し黙っていると今度は桃子から質問が飛んできた。林檎は気を取り直して答える。
「その前にこいつらを紹介しておくか。タグー、出てきていいぞ」
そういうと今まで何もいなかった場所に何匹ものカエルが現れた。正確にはカエルの姿をした使い魔だ。タグーというのは彼らの種族名だった。その一匹が甲高い声で喋り始める。
「モモコ、ゴキゲンヨウ。タグーデス。リンゴサマノツカイマ」
「うわ、カエルが喋った。…キモカワ系?」
桃子はしげしげとタグーたちを眺めている。
「あまり抵抗がなさそうでなにより。家事は基本的にこいつらがやってくれるから、貴様が家事を手伝う必要はそれほどない」
「見る分にはいいけど触るのは抵抗あるよ?」
それは完全に蛙に対する感想ではないのか、という言葉を飲み込み、林檎は言葉を続ける。
「二つ目の条件は、家事を手伝う必要がない分、代わりに我のタレント活動を手伝うことだ」
「いいけどあたしバーチャルなんとかって分かんないよ?」
「それは問題ない。我の他に事情を知っている動ける人間がいるといろいろ都合がいいんだ。あと我配信で貴様のモノマネをしているが構わないな?」
「事後承諾じゃん。いいけど。でも似てなそう」
ははは、と林檎は笑い、冗談っぽく答える。
「代わりに貴様が出てもいいぞ?桃子パートの時だけ」
「何?桃子パートとかあるの?聞いてる人に伝わんないでしょそれ」
「別に定期的に出てきているわけじゃないし、元ネタの話をしているわけでもない。こういう人いそうだよなーっていう概念モノマネとしてやっている。意外と定着しているぞ」
「いそうだよなーっていうかいるしね」
桃子はあきれたような声で答える。
「これで許可は取ったからな。手伝いの一環として今後もネタにさせてもらおう」

林檎の用件はこれで済んだ。あとは細かい調整事項を詰めるだけだ。家賃として相場の1/4を提示した時はこんなに安くていいのかと驚いていたが、それ以外は順調に話が進み、住む予定の部屋を見せ、引っ越しのタイミングの調整まで済ませた。話を終えたころにはすっかり夕方になっていた。
「せっかくだから食べていくといい」
林檎は桃子を夕食に誘った。小さな体でてきぱきと食事を用意するタグーたちを桃子は感心した様子で見ている。食事が始まり、桃子は蜜柑とあれこれ話している。一人増えた食卓はいつもよりもにぎやかだ。初対面の人間と和気あいあいと話せるのは蜜柑の良いところだと改めて思う。
こうして、桃子は林檎の屋敷に住むことになった。

****

月の最初の週が終わるころには桃子は林檎の屋敷の一室に住むようになっていた。つまり、林檎が雑誌に載ったのを見つけてから1週間経っていないうちに桃子は引っ越しまで済ませたということになる。厳密には、荷物は完全に移したわけではなく、家具など多くはまだ旧居にあったが、屋敷には一通り揃っていたためほとんど持ってくる必要がなかったのだ。そのおかげで当面の荷物だけで桃子は済む場所を移すことができた。きちんとした引っ越しは月末に間に合えばいい。
桃子があまりに早く屋敷に住むというので驚かれたが、林檎には「こっちの方が駅に近いし」などと適当なことを答えていた。実のところは同居してみることについての不安から、ダメなら早めに次を探そうと思ってのことだったが、住んで数日でその不安は杞憂だったことが分かった。少なくとも、桃子にとっては屋敷での生活は何ら問題のないものだった。そればかりか、予想以上に、特に妹の蜜柑に歓迎されているような様子で、毎日朝夕の食事を準備してもらっているのには桃子も申し訳ないと思いつつ、一人ではない食卓を楽しんでいた。

桃子が数日過ごしてみて驚いたのは林檎の生活だ。林檎はいつも何か作業をしているか、あるいは優雅にわずかな休憩の時間を過ごしているかのどちらかで、無為に過ごしているような時間はほとんど見つからなかった。仕事のために出かけた日も、帰ってきてから必ず何か作業をして配信をしていた。最初は自分が見えるところでだけかと思ったが、蜜柑に聞いたところ林檎が自室に籠って作業することはほぼないらしく、実際に毎日忙しくタレント活動に精を出しているようだった。その中でも時間を作ってティータイムを取り、紅茶を淹れて蜜柑と話したりしているようで、桃子も一度一緒に紅茶を飲んだ。作業について尋ねてみると半分以上が桃子にはよくわからないものだったが、何よりその量を聞いた時にはさすがに手伝いを申し出た。しかし、今頼めそうなものはないと断られてしまった。桃子は今までの生活を十分忙しかったしまた努力もしていたと思っていたが、林檎の生活を見ているとその考えも甘いもののように思えてくるのだった。

屋敷に桃子が住み始めてから一週間が経った。夕食のテーブルでは林檎と蜜柑が毎日やっているという配信について話をしていた。林檎は平日の夜は決まって離れに行き、配信をしているようだった。桃子は夕食の後は自分の部屋で過ごしていたので知らなかったのだが、蜜柑はたいてい同席しているらしい。桃子がそういえば最近は林檎の配信を見ていないな、などと考えながら、配信について話している蜜柑と林檎を眺めていると、林檎が桃子の方を向いて尋ねた。
「そういえば、貴様も一度配信の様子を見に来るか?」
桃子が答える前に蜜柑が声を上げる。
「桃子さんも来ていただけるんですの?素敵です!」
うれしそうな蜜柑の表情と、林檎の配信への興味と、桃子の中の負い目のようなものが桃子を説得した。桃子はだるそうに答える。
「まあ、じゃあ一回お邪魔しようかな」

21時から配信を始めるというので、桃子はその時間に合わせてリビングに降りた。湯上りの林檎と、うきうきした様子の蜜柑と連れ立って配信場所である離れに向かう。離れに着くと、林檎は持ち込んだノートパソコンと機材を繋いで準備を始めた。蜜柑はタブレットを手にしている。桃子が手持無沙汰にその様子を眺めていると、蜜柑がイヤホンを片方差し出してきた。
「いつもこちらのタブレットで実際に放送されている画面を見ていますの。音はお姉さまの声以外が聞こえてくるようになっていますわ。トラッカーを付けて動くお姉さまも麗しいですけど、放送されているものを見るとお姉さまの麗しさが十二分に発揮されていますのよ!」
蜜柑の口調には熱がこもっている。桃子はイヤホンの片方を受け取ると、片耳につけて蜜柑と一緒にタブレットをのぞき込んだ。目の前では林檎が頭や手足にハイテクそうな機器を取り付けて立っている。配信が始まると、林檎は流れるような声で話し出した。
目の前の林檎が動くと、その動きに合わせてタブレットの中の林檎が動く。目の前の林檎が虚空を掴むと、画面の中の林檎は様々な物体を掴んで遊んでいる。画面の中の林檎が踊ったり話したりしているときには、目の前の林檎は画面の中には映らない範囲で手元の機器を目まぐるしく操作しているのが見えた。目の前にいる林檎は桃子のよく見知った林檎だが、画面の中の林檎は別人のように輝いて見える。それでいて、どちらも林檎だというのが桃子には以前よりはっきりと感じられた。
「蜜柑。こっちこい」
林檎が蜜柑を呼ぶ。蜜柑は嬉しそうに立ち上がると、タブレットを桃子に渡して林檎のもとへ行きマイクを受け取った。蜜柑は時折少しだけ喋ることがあるとは聞いていたので、なるほどこんな感じかと見ていると、目の前の林檎が頭の機器越しでもわかるように桃子に視線を送ってきた。貴様も出るか、といったところだろうか。桃子は無言で首を横に振る。蜜柑がえへ、とかわいらしい声を発してからマイクを置き、桃子の隣へ戻ってきた。
「桃子さんに見られていると少し恥ずかしいですわ」
蜜柑がひそひそ声で話す。タブレットを再び二人で共有して配信を楽しみ、1時間強で配信は終了した。改めて配信をしっかり見ると、九条林檎という人間?の魅力が存分に発揮されている配信だということを思い知らされた。そして見えないところで、林檎がどれだけのことをこなしているのかに桃子は衝撃を受けていた。林檎がまた目線を桃子に向ける。どうだ、楽しめたか、といったところだろうか。桃子は本心から頷くと、後片付けをする林檎の姿をじっと見つめていた。

それから時間がある日は桃子は林檎の配信に同席するようになった。配信中にまた視線を向けられたので同じように首を振ると、林檎が桃子のモノマネをし始めたときは正直少し焦った。しかもそのモノマネが多少強調されてはいるが確かに桃子っぽいのだ。リスナーの反応も、「桃子」という謎のキャラクターに対して戸惑いながらも楽しんでいるようだった。それが2回続き、ついに桃子は諦めて首を縦に振った。適当にそれっぽくやってしまえばいいだろう、と特に考えずに喋って、話すことがなくなったタイミングで林檎にマイクを返した。その時のリスナーのコメントを読むのは桃子にとってはとてもくすぐったいような体験だった。桃子はすっかり林檎の生活とタレント活動に組み込まれてしまったようだ。それでも桃子は、まだどこか後ろめたいような申し訳ないような気持ちを林檎に対して持っているのだった。

****

一方の林檎にとっても、桃子が加わった生活は違和感なく受け入れることができた。もともと桃子は林檎にとって友人とも呼べるか怪しい程度の交流しかなかった人間だ。それが一週間かそこらで林檎の生活に馴染んでしまっているのは林檎にとっても驚くべきことのように感じられた。林檎は貴族という立場から、住居に使用人など親しくない人間がいることには慣れているのだが、それだけでは到底説明できないのだ。それはおそらく桃子の裏表のなさと自己の強さによるものだろう。林檎は同居人についてそのように考えていた。直截すぎる物言いも、林檎たちに対する物怖じしなさも、一方でどこか適当に思える言動も、おそらくその芯のゆるぎなさに由来しているのではないか。そこまで考えて、林檎は桃子のことを少しうらやましく思う。

先日の配信でも、桃子を出させてみたところ桃子はいたって普通の調子で喋っていた。モデルを志しているからには人前に立つことに慣れているのかもしれないが、それでも一介の人間が突然喋れと言われて素のままで喋ることができるのは並のことではない。今後も配信の小ネタで使っていこう、などと考えているうちに、林檎の思索は直近の動画の企画にまで進んでいた。月明かりの差すデスクに向き合い、林檎は企画の案出しに取り掛かる。奇しくもそろそろバレンタインが近づいていた。

十代の女性にとって、バレンタインといえば思い人に気持ちを伝える日なのかもしれないが、タレントにとっては企画を打つ絶好のタイミングでもある。目下の悩みはその企画をどうするかということだ。いくつか案を出してみるが、いまいちしっくりくるものがない。どうしたものかと思案していると、背後から鼻歌が聞こえてくる。ドアの開く音がして、桃子が部屋に入ってきた。
林檎が振り返って桃子の方を見ると、桃子も林檎に気づいたようだった。
「林檎ちゃんまだ起きてるの?珍しいね。夜更かしはお肌に悪いよ?」
「貴様はいいのか?」
「あたしは普段から気を使ってるからこれくらい平気」
軽口をたたく桃子を見て、林檎が唐突に一つのアイディアを思いつく。面白い案ではあったが、実現できるのかは微妙なところだった。林檎は声の調子を切り替えると桃子に尋ねる。
「そういえば、貴様は歌を歌うのは得意か?」
「なんでそんなこと聞くの?まあ普通に歌える方だと思うよ」
「先ほどの鼻歌だが、あの曲好きなのか?」
「え、まあね。昔CDよく買ってたなあ」
その返答で林檎が再び考える。その様子を見た桃子が不思議そうに尋ねてくる。
「どしたの林檎ちゃん。夜更かしも珍しいし、なんか悩んでるみたいだし」
「そのことなんだが…」
林檎がダメ元で口に出してみる。
「桃子、貴様我と一緒に歌わないか?」

林檎が考えた企画は、バレンタインに合わせて林檎、蜜柑、そして桃子で歌ってみた動画を作成するということだった。テーマソングはバレンタインにぴったりだし、最近登場が増えてきた桃子や正式に紹介する機会のなかった蜜柑の紹介にもなる。歌ってみたは一度やりたいと思っていたし、3人でパートごとに歌うのは面白いものになると思えた。蜜柑はおそらく協力してくれるだろうが、問題は桃子だ。テーマソングの性質上、3人で歌うのが一番いい。
当然、桃子はあきれた顔をして、そのあと渋るような顔をした。林檎が企画を説明し、協力を求めても、桃子はやるともやらないとも言わなかった。林檎はてっきりすぐに断られると思っていたのだが、意外にも桃子ははっきりとしない態度でいる。
「別に嫌なら断ってかまわんのだぞ?無理強いするつもりはない。その時は別の企画を考えればいいだけだ」
桃子は難しい顔をして林檎に尋ねる。
「さっき悩んでたのってこの企画のこと?」
「ああ、あまりいい案が浮かばなくてな」
その返事を受けて桃子はさらに考え込むように目をつぶった。そしてしばらくのち、ため息を大きく吐き出してから、気乗りしないような声で答えた。
「いいよ。手伝う。そういう約束だったしね。あたしの歌でいいならだけど」
意外とすんなり了承が得られたことに林檎は少し戸惑いながらも、それならと話を進めていく。
「本当にいいのか?なら、なるべく早くレコーディングしなければならないんだが、いつなら大丈夫だ?」
桃子と林檎は予定を調整すると、遅い時間だからと共に寝室に向かう。桃子の部屋の前で、林檎は桃子に声をかけた。
「協力してくれること礼を言おう。明日に備えて今日はゆっくり休むといい。では、いい夢を」
「ん。林檎ちゃんもおやすみ」
桃子と別れた林檎は自分の寝室に向かう。明日からまた作業が一つ増えそうだ。だがその憂鬱さ以上に、林檎は良い動画を作るために最善を尽くそうと心に誓うのだった。

****

桃子が林檎の屋敷に住み始めて1か月が経とうとしていた。旧居は完全に引き払い、桃子は書類の上でもこの屋敷の住人になっている。桃子の生活は劇的に楽になった。金銭的な余裕はもちろん、家事やバイトの負担が減って時間的な余裕もできた。なにより生活に他人がいるということは精神的に余裕をもたらしてくれていた。できた余裕はモデルという目標に向けての努力に使っている。その恩人である林檎に向けては、配信を見に行き、時折手伝いまがいのこともしたが、桃子にとっては大した恩返しになっているとは思えなかった。きちんと手伝ったと言えるのはせいぜい歌の収録くらいだろう。意外なことに、桃子の歌も好評だったらしい。そのような事情もあり、林檎から週末空いていれば手伝ってほしいとお願いされたとき、桃子はスケジュールを確かめて二つ返事で引き受けたのだ。

週末、桃子は林檎の代わりに買い物に出かけていた。ただし、普段の買い物と違うところが二つあった。一つは買いに行くもの、もう一つは桃子が眼鏡とイヤホンを付けていることだ。
頼まれたのは林檎のファングッズだ。今日はどうやら有志主催のイベントがあるらしく、林檎のグッズを出品している者もいるから買ってきてほしいということだった。ただ、林檎の依頼はそれだけにとどまらなかった。買い物中はこの眼鏡とイヤホンを付けてほしい、というのがもう一つの依頼事項だ。林檎が言うところによると、この眼鏡にはカメラとマイクが仕込まれており、周囲の状況をリアルタイムでモニターできるらしい。そしてイヤホンで林檎が指示をするのでその通りに買い物をすればいいとのことだった。意図を尋ねると、買うものはしっかり吟味したいが身バレする可能性があるという答えが返ってきた。桃子はその答えに納得して、少しでも林檎の力になるべくイベント会場に向かうのだった。

会場を前にして桃子が声を出す。
「林檎ちゃんこれ聞こえてる?会場着いたよ」
イヤホンからは林檎の声が聞こえる。
『ああ、聞こえている。それと会場にいるときは我に話しかけないようにしてくれ。貴様が代理人だとバレるのもできれば避けたい』
「はいはい」
桃子は小声で返事を返すと、会場に足を踏み入れた。

会場は桃子が想像していた以上の賑わいを見せていた。所狭しと机が並べられ、グッズや冊子が陳列されている。
『すごいな』
桃子が思っていたことを林檎が代わりに口に出す。少しの間会場を見回すと、林檎は事前に調べた情報を元に桃子に指示を出し始めた。
『まずは左奥のところからだ』
『奥から2番目の。そう、女性がいるところ。そこの本を1冊』
『次は反対側だな。あのポスターのところだ。我のキーホルダー。それと新刊を1冊だ』
『一通り回ったがまだ予算が少しあるな。あれを買おう。さっき通ったとき…』
桃子は言われたとおりに会場を動き回り、買い物をしていく。時にはしっかりと手に取って確認し、林檎に見えるようにして間違いのないように物を選ぶ。出品者への礼儀を忘れるなと言われていたので桃子は極力丁寧に接していた。残り数冊しか残っておらずギリギリ買えたものもあった。桃子が買い物を終えるころには売り切れたところもいくつか出ているようだった。
桃子が会場の隅で空いているところに退避し足を落ち着ける。参加者一人一人の熱量が桃子の体温を上げていた。我なんてまだまだ、という林檎の言葉は本当に謙遜だったのだろう。林檎以外の者のグッズもあるとはいえ、桃子が回ったすべての売り場でファンの熱を感じていた。画面越しで見るに飽き足らず、何かを作る人々、そしてそれを求める人々がこれだけいるというのは、桃子には驚きだった。

「これで買い物は終わり?」
周囲に人はいないが、念のため小声で桃子が話す。
『ああ、もう戻って大丈夫だぞ。できることならもっと買いたいしもっとここにいたいんだがな』
「あそこのアクリルフィギュア、買わなくてよかったの?」
桃子が気になっていたことを口に出す。林檎のグッズは基本的に買っているようだったのだが、時折買わないものもいくつかあったのだ。
『ああ、あれは我じゃないからな。我のもとではなく、必要としている者のところにいくべきだろう』
「そう?じゃあ、あたしもう帰るね。これ切っちゃって大丈夫?」
『切ってもかまわんぞ。礼を言おう』
「普段からお世話になってるからこれくらいはね。じゃ」
そういって眼鏡のスイッチを切り、林檎との通信を切断する。荷物を確認して、いざ帰ろうと桃子は最後にもう一度会場を見渡した。ふと桃子にある考えがよぎる。桃子の足は林檎のグッズを売っているスペースの一つに向かっていた。
「あの、やっぱりこれ1ついただいていいですか」
桃子が飾ってあるキーホルダーを指さす。先ほど買い物で回っていた時、予算の都合で諦めたもののひとつだ。林檎のキーホルダーは2種類あったが、林檎は桃子に2つをじっくり見比べさせたうえで泣く泣くといった様子で一つを諦めていたのだ。桃子は自分の財布から代金を取り出し、そのキーホルダーを手にした。キーホルダーを自分の鞄の底にしまって、桃子は会場を後にした。

屋敷に戻ると、やけに上機嫌の林檎が桃子を迎えた。荷物を受け取った林檎は早速とばかりに買ったものを並べ始める。
「林檎ちゃん、嬉しそうだね」
「これが嬉しくないわけがなかろう?あそこにいたのは我の大切なファンだ。画面越しだとどうも実感が湧かなかったが、奴ら本当に実在したんだな」
「そりゃいるでしょ。ファンレターとかも来てるんでしょ」
「それでも何度だって嬉しい。それにわざわざ心を割いてものをつくったり、時間と金を費やしてそれを買い求めたりするやつらがあんなにいたんだ。タレント冥利に尽きる」
そう話しながらも、うきうきとした様子で荷物を広げては、これはあそこに飾ろう、これは後で読もうなどとつぶやく林檎は、桃子には年相応の18の少女に見えた。
「林檎ちゃんは頑張ってきたもんね」
桃子がそうつぶやくと、林檎はいぶかしむ目で桃子を見る。
「なんでもない。じゃああたし部屋に戻るね」

桃子が部屋に戻り、鞄の底から林檎のキーホルダーを取り出す。描かれた林檎の姿は特徴をよく捉えていて美しく、丁寧に作られていることが分かる。それを手渡してくれた人の笑顔を思い浮かべる。このキーホルダーは林檎への好きの結晶なのだ。会場にあった他の本やグッズもそうだ。林檎はたくさんの人々に応援されてここに立っている。それに見合うだけの魅力があることも、そこに見合うだけの努力をしていることも、桃子はこの1か月で十分に分かっていた。
「遠いな」
キーホルダーを見つめる桃子の口から言葉がこぼれる。桃子の目指すところは形は違えど方向は同じだ。キーホルダーを机の中にしまいベッドに倒れこむ。
「あたしもがんばんないとね」
そのまま桃子は、午後のまどろみの中に落ちていった。

****

「林檎ちゃんはさあ」
林檎が作業をしている傍らで、桃子はソファに寝そべってスマートフォンを見つめていた。
「どうして配信者なんかやってんの?」
桃子の疑問に、林檎はわずかに微笑んで答える。
「そんなことを言って、貴様ももう十分わかってるんじゃないのか?」
桃子は確かにその答えを十分わかっていた。それでもそのまま認めるのは癪で、軽口を返す。
「林檎ちゃん、質問に質問で返しちゃダメなんだよ?知らないの?」
「領主の家系たる九条家の長女、九条林檎に対してそんな態度を取るのは貴様だけだ。まったく、貴様は変わらんな」
「林檎ちゃんって友達いないんだね」
ははは、と軽く笑って林檎は再び作業に戻る。桃子の口から思わずいいなあ、という言葉が漏れる。林檎は聞こえないふりをしてくれたのだろうか、桃子の言葉には特に反応を示さなかった。

林檎には桃子がうらやましかった。他人の目などどこ吹く風で、自分の言いたいことを言いたいように言い、したい格好をする桃子のことが。変わらず、揺れず、桃子であり続ける桃子のことが。そしてそんな友人を、林檎はやはり嫌いになれないのだった。好きかと問われれば、無条件で頷くかは疑問だったが、どんな憎まれ口をたたかれても、何気ない言動が心の傷をえぐっても、それでも嫌いにはならないことは確かだった。そこが桃子の魅力なのだろう。自分の在り方を後悔したことなどないが、それでも林檎は時折、桃子のようにあれたらと思う時があるのだ。

桃子には林檎がうらやましかった。丁寧に言葉を選び、行動を選び、自らが人々の前に立つにふさわしい者でありつづけようとする林檎のことが。悩み、考え、努力を絶やさず夢の第一歩を掴んだ林檎のことが。そしてそんな同居人に、桃子は感謝していた。住ませてくれたこともあるが、それ以上に、林檎の戦う姿を見せてくれたことにだ。あのキーホルダーに込められた熱量が、林檎が今まで勝ち取ってきたものの一つなのだろう。そして今も、林檎は寸暇を惜しんで次の戦いに打って出ている。桃子も自分の夢を諦めるつもりはないが、それでも、もし林檎のようだったらもうとっくに夢を掴めていたのだろうかと考える。でも結局、そんな風にやるのは自分には無理だと思いなおす。自分のペースで進んでいくしかないのだ。

「我はな、たとえひと時であっても、自分のつらいことを忘れられるような楽しい時間を提供できる、そんな存在でいたいんだ」
林檎が唐突に口を開く。モニターを向いたままで桃子からは表情は見えない。桃子がいぶかしんでいると林檎が再び口を開く。
「さっきの質問の答えだ。これじゃ不満か?」
「林檎ちゃんは立派だね」
「単なる我のエゴだ」
「領主としての責務、とかじゃなく?」
「ああ」
夜は更け、あたりは寝静まっているのだろう。会話が途切れると、音のない時間が続く。その静寂を破って林檎が桃子に言葉を投げかける。いつの間にか林檎は桃子の方を向いて微笑んでいる。
「自分で決めたんだ。貴様だってそうだろう?」
今度の静寂は桃子のものだ。桃子は無表情で林檎を見つめ返す。
「まあね」
それだけ返して、桃子はソファに倒れこむ。林檎は満足そうに笑みを浮かべるとモニターに向き直り、作業を再開する。
夜の静けさが、二人の少女を包み込んでいた。

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余接

好きなものを布教することがメインコンセプトですが、書きたいことを適当に書いています。最頻コンテンツは九条林檎・VTuber関連。

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