Vtuberに人権はあるか あるいはVtuberを作品として批評するということ

Vtuberに人権はあるの?みたいな話をふわっと目にしたので雑に意見を書きます。ちゃんと読んだのは以下のやつくらい。

35分あたりから、当事者として「Vtuberの人権問題」という題で当事者からの話が聞ける(それ以降もV界隈の問題点に触れていて一見の価値はある)。

なんとなくの論点として、Vtuberに人権はあるんだよという主張と、Vtuberは作品だから人権はないだろ自由に言及させろという主張が若干噛み合ってなさそうな気がしている。知らんけど。

先に結論を書くと私としては功利的な観点からVtuberを人権をもつものとして扱うべきという立場を取る。功利的というのは、言及の自由とVtuberの尊重ではVtuberの尊重の方が(現在のV界隈においては)重要だからだ。ただし、言及の自由を軽視するということではなく、単純に実在するタレントやTwitterアカウントに接するのと同じ姿勢で言及しようねくらいの意図である。

そもそもとして私は特にクリエイターに対して否定的な言及は極力避けるべきだと思っている。例外としてこの文のような論説やニュースなどはある気がするが、基本的にはネガティブな反応はクリエイターの意欲を削ぐ可能性が高い。現実的には表現をするのならネガティブな反応も覚悟の上であるべきというべき論はあるが、それは単純に表現者に求めるものを1つ増やすことになるので、表現能力を持つがそれを持たない人が減る分、表現の総数と多様性は確実に減少してしまう。

特にVtuberというジャンルは、現実と乖離した仮想的人格の活動を楽しむものだと考えている。そして仮想人格を作るには現状人間の人格を用いるしかない(AIが知性を持つまでは)。その性質上、他の二次元的創作より演者の人格とキャラクターの人格は接着しやすい。見た目はアニメキャラのようなものでも実質はタレント・芸能人である。

私の見聞きする範囲では、同人の絵描きなどでネガティブな反応や反応のもらえなさから筆を折る話は割と観測する。他の界隈でも多分そうだろう。それらの表現は作者の人格の全てではなく一部の創作技能(絵のスキルや文章力など)の表出だが、それだって否定されたらダメージが通る人はままいるのだ。ましてVtuberのような表現形態ならその影響は大きいだろう。

批判がゼロなら業界として健全性がなくなるだろうという意見は否定できないが、そもそもこのような文章を読みこのような危惧をする人はまだしも言及先に配慮できる人であって、一般論として流通するような荒い解像度の話としてはVtuberの人間性を保護すべきというスタンスで問題ないだろう。そもそも昨今は叩き・ディスりの過剰供給で、それを増やす動きは誰も喜ばないだろう(喜ぶ人が増えたから増えているのかもしれないが)。

ちなみに上記で意図的に人格と人権を混同させた。これも荒い解像度で同一視されがちだからだ。実際には冒頭のブログで言及されているようにVtuberのキャラクター部分に人権はない(著作権はある)。ただし人格はある(ように扱って楽しむ)ものだと思っている。人権の話を正確にすると法律の専門知識が必要になるので私にはできない。

ということで、結論としてはVtuberに人権はある。この結論で困る人間がVtuberを追っている人たちにいるだろうか?

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補足として、Vtuberってなんの意味があるの?(YouTuberでよくない?)という話も見たので、これも雑に言及する。Vtuberの新しさ・価値はキャラクターとしてのフィクション性を保ちつつ高い双方向性を持たせることができるコンテンツだからだと考えている。ようはアニメキャラが人権を持った(この表現をどこかで見たが割と気に入っている)ことが価値である。Virtual Beingで言及されるAI人格の存在も、エンタメの文脈では上記の価値を求められることになるのではないかと思っており、VtuberはAIを使わなくてもそれを実現できる手段なのだ。

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