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素顔 1-1

 仮面の下には人の顔、とは限らないものです。たとえ体が人でも、人に化けた鬼かもしれませんし悪魔かもしれません。天使やヒーローなんてありえません。仮面の下の素顔は、鬼か、悪魔か、鬼や悪魔の餌になる人だけです。自分はどうやら鬼でも悪魔でもなく餌のようです。鏡を見ても鬼のような太い角がありませんし、悪魔のような黒く尖った耳もありません。自分は、人の顔をして、人の体をもった、鬼や悪魔に喰われるだけの餌でした。

 こんな自分が、鬼や悪魔に笑われるのを承知で、今から自分を書こうというのです。自分をこのような愚行に走らせたのは、祖父の影響でした。

 一昨日、祖父が死にました。自分はその連絡を受けた翌日に帰郷しました。実家の客間で横になった祖父は肌が青白いだけで去年の夏に会ったときと変わりませんでした。自分が生まれる前に母の両親が死んでいたので、自分にとって家族の死はこれが初めてでした。

 昨日、祖母から封筒を渡されました。その真ん中には、遺書、と祖父の字で書かれ、十数枚にわたる手紙が入っていました。祖父の性格をあらわすような荒々しい文字はところどころ読みづらく、実際に読めない部分もありましたが、読み進めるうちに家族ひとりひとりに向けた言葉を見つけました。

 人に迷惑をかけても、自分に嘘をつかず、まっすぐ生きてくれ。

 これが自分に向けられた言葉でした。滅多に泣かない自分ですが、このときばかりは涙をほろりと落としそうになりました。あと数年で三十路の男が、アルバイトを転々としながらくだらない小説を書き、文学賞に送っては意気揚々と選考結果を見るものの一次選考すら通らない有り様なのです。親戚からは、農家を継げ、と言われました。自分が笑ってあしらうと、世間を甘く見るな、と言われ、死んだじいさんも泣いてるよ、と違う親戚にも言われました。

 人に迷惑をかけても、自分に嘘をつかず、まっすぐ生きてくれ。

 祖父が残したこの言葉を見せてやろうかと思いましたが、やめました。彼らがこの言葉を信じるとは思えなかったのです。この言葉は祖父が書いた祖父の声であり、祖父の意思です。しかし彼らの中には、彼らが作り出した祖父がいるのです。彼らにとって本物の祖父は彼らの中にいる祖父で、本物の祖父は偽物です。自分がこの間違いを正そうとすれば、彼らは必死になって自分を責めるでしょう。間違いを正されるのは、いくつになっても嫌なことですから牙を剥くのも当然です。

 死人に口なし。俺はそれが気に食わない。だからここに、俺のすべてを書き残す。

 この言葉があの遺書の書き出しでした。実家に戻ってから、その言葉が身に染みました。親戚が語る祖父の話。そこに本物の祖父がいるのか、自分には祖父の形をした別人の話をしているように聞こえました。自分は、あの遺書のおかげで本物の祖父を知っています。たとえ死人に口なしでも、あの遺書があるかぎり、それを読めば誰でも本物の祖父と会えるのです。祖父はそれを望み、こうして望みを叶えたのです。

 自分も事実を捻じ曲げられたくありません。これは人として最低限の望みです。祖父の真似事になるのを承知で、自分を書き残そうと思い立ったのです。祖父は元気だった頃からいつ死んでもいいように毎年遺書を書いていた、と祖母から聞きました。自分も、いつ死ぬかわかりません。明日かもしれませんし、十年後かもしれませんし、これを書いているときかもしれません。祖父だって夕食を終えて食器を下げようとした瞬間に倒れたのです。自分がいつ壊れるのか、誰にもわかるはずがありません。

 こうして自分と向き合っていると、なぜか改まった口調になってしまいます。過去は未来よりずっと身近なのに、自分との距離が離れているような口調になるのが不思議です。自分は小説家を目指していますが、これを読む相手が、この程度で小説家になろうとしているのか、と笑う姿が容易に浮かびます。それが心から悔しいです。自分を馬鹿にされて悔しいのではありません。自分を信じてくれた祖父母を裏切ったようで悔しいのです。祖父と祖母は鬼でも悪魔でもありません。自分と同じ人であり、自分と違って誠実でした。自分はそんな人たちからもらった愛を裏切りたくないのです。

 この手紙で自分の望みが叶うと、そう信じて書き進めようと思います。

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