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私の一枚

 どうして私が撮る写真は、どれもつまらないのだろう。机の上に並んだ写真の束を眺めながら、私は、うーん、と唸った。清江さんの写真はどれも落ち着きがあっていいよ、と藤村さん夫妻は褒めてくれる。でも、私にしてみれば、どれも冴えない写真だった。

 もっと自信を持てばいいのに。

 恵津子さんの言葉が頭の中に過ぎった。藤村さん夫妻のような写真が撮れれば自信を持てるかもしれないが、私の実力では無理だ。きっと明日の撮影会でも、私が満足する写真は撮れないだろう。

「ただいま」

 和室まで優太の声が届いた。壁にかけた時計を見ると、午後七時をまわっていた。
 雄介たちと一緒になると決めてから、ほとんどの荷物を処分した。引っ越す前日に、三つの段ボール箱にまとまった自分の荷物を見て、たったこれだけしか生きた証がないのかと、私が生きてきた七十年近くの時間は何だったのだろうと、あのとき覚えた寂しさを今でも思い出すことがあった。ここには、雄介も、里美さんも、優太もいるのに。

 ふいに視線を感じて、私は振り向いた。箪笥の上の写真立てに入った私と夫の写真が目に入った。私はいつまで後ろを見ているつもりなのだろう。
 引き戸が開く音に視線を引き寄せられた。制服姿の優太が廊下に立って私を見ていた。
「ごはん、できたよ」
 うん、と私が答えると、優太はにこりと笑って引き戸を閉めた。

 リビングは夕食のときが一番眩しい。そう感じるのは照明のせいなのだろうか、と、その答えを知りながらわからないふりをする自分が、我ながら痛々しかった。
「ごちそうさま」
 そう言って、私は食器を流し台に運んだ。ホームドラマでよく見る、平和な食卓だ。そこに私がいなくても、雄介たちは立派な家族なのだ。そんな当たり前のことが、私にとって違和感しかなかった。
 私は、ここにいてもいいのだろうか。
 眩しすぎるリビングから逃げるように、私は真っ暗な廊下に出た。

                 *

 公園は桜が満開だった。私は首にかけた一眼レフカメラを持ちながら園内を歩いていた。よく晴れた、あたたかい日で、春の訪れを喜ぶ草花のようにたくさんの人が来ていた。
「人気者だな」
 桜の下を見ながら裕次郎さんが笑った。そこにはカメラを構えた人たちに囲まれた奈々ちゃんがいた。奈々ちゃんは淡い水色のワンピースを着て、誰かに渡されたのか、ここに来たときには持っていなかったつばの広い麦わら帽子をかぶっていた。
「来週から東京だもの。奈々が大学生なんてねえ。孫の成長って本当に早いわ」
 きょろきょろと周りを見ながら恵津子さんが言った。私も、藤村さん夫妻も、自然や建物を撮るのが好きで、まずはその日に気に入った場所を探すのが、私たちの撮影会でのやり方だった。

「新しいモデル、探さないとね」
「そう簡単には見つからんだろ」
「だから見つけるんじゃない」
 藤村さん夫妻の話を聞きながら、私はくすくす笑った。小柄で愛嬌のある恵津子さんに、どっしりとして頑固そうな裕次郎さん。二人は顔も体型も似ていないのに、こうして並んでいると、どんどん似てくる。顔ではなく、存在が、だ。きっと長年連れ添っているから、お互いの空気が混ざり合って、二人が似ているように見えてくるのだろう。

「清江さんは?」
 えっ、と答えた私に、お孫さんよ、と恵津子さんが笑いながらそう付け加えた。
「モデルにどうって話」
「無理よ。嫌がるのが目に見えてる」
「そう? 奈々だって最初は嫌がってたけど、やってみたらああなったし」
「でも、うちは男の子だから」
「大丈夫よ」
 ないない、と低い声が割り込んだ。どうして、と裕次郎さんを見ながら恵津子さんが訊いた。
「ただでさえ難しい年頃だろ? モデルなんかやるわけがない」
「そうかしら。こういうのが好きな子もいると思うけど」
 藤村さん夫妻は息子さんを例に出しながら中学生の難しさについて話し始めた。二人は歩くときも座るときもいつも隣で、私はその姿を見るといつも微笑ましくなって、私にもこんな時間があったのだと、つい夫のことを思いだしてしまう。定年を迎えて、これから二人でゆっくり過ごそうとしていた矢先に夫が死んだ。あんなに元気だったのに、私が買い物に出かけている間にリビングで倒れていた。そのときの光景がよみがえりそうになって、私は頭を小さく振った。

「ここはどう?」
 恵津子さんが景色を切り取るように指で作った四角形を覗いた。その先には、一足先に散りかけている小さな桜があった。
 裕次郎さんが、いいな、と答えた。藤村さん夫妻の写真は、日常に隠れた美しい一瞬を切り取っているものが多かった。同じ場所で撮っているはずなのに、私の写真はいつもその一瞬を逃して、ぱっとしない。写真を撮り始めてから、もうすぐ一年が経つのに、自分が気に入る写真が一枚もなかった。よっぽど写真を撮るのが下手なのだ。
 でも、本当にそうだろうか。下手でも、これだ、と思えるような一枚は誰にでもありそうなものなのに。
「清江さんも、ここでいい?」
 恵津子さんにそう訊かれて、私は、ええ、と答えた。
 お昼休みになって、私たちは公園の真ん中にある小高い丘のようになった芝生の上で、遠足を思いだすようにレジャーシートを広げてお弁当を食べた。いつもは混んでいるこの場所も、今は花見のおかげで広々と使えた。

 私の弁当は、里美さんが作ってくれたものだった。私のために、わざわざ弁当を作ってくれることが、今でも申し訳なかった。
 でも、自分で作ろうとは思わなかった。料理や早起きが嫌なのではなく、里美さんにとって、私があのキッチンを使うことは無断で部屋を出入りされるように不愉快なことに思えて、あの家に引っ越してから、まったく料理をしていなかった。
 雄介にこのことを話したら、考えすぎ、と怒られるかもしれない。

「みんな、よく覚えてるわね」
 えっ、と呟きながら、私は顔を上げた。恵津子さんの視線の先には、みんなからプレゼントをもらう奈々ちゃんがいた。
「来週、誕生日なのよ」
 トートバッグからペットボトルのお茶を出しながら恵津子さんが言った。
「あの子はまだまだ若いからいいわ。私たちなんか、いつ次の誕生日を迎えられなくなるのかわからないものね」
 恵津子さんの言うとおりだ。弁当箱をリュックサックに入れながら、私はそう思った。この歳になれば見た目の元気さはあてにならない。気づいたらなくなっている落し物のように、突然、死は訪れるものなのだ。それが夫から学んだことだった。

「そうだ、あとで遺影を撮りましょう」
「遺影?」
 恵津子さんの唐突な提案に、私は素っ頓狂な声が出た。
「そう。私たちもいい歳なんだから、そろそろ死んだときの準備をするべきだと思うの。ほら、遺影は死んだあとの顔になるし、自分が満足する写真にしたいじゃない」
「縁起でもない。俺は撮らんぞ」
「いいわ。清江さんに頼むから。ねっ?」
 裕次郎さんの呆れたような顔をちらりと見てから、私は、もちろん、と笑顔で答えた。
「これ、もらっちゃった」
 ワンピースをゆらゆら揺らしながら奈々ちゃんが駆け寄ってきた。恵津子さんと裕次郎さんはたくさんのプレゼントを抱えた奈々ちゃんに、よかったね、と笑顔を見せた。いつもの笑顔とは違う、どこかとろりと甘い、おじいちゃんとおばあちゃんの顔をしていた。
 私は談笑する奈々ちゃんと藤村さん夫妻を邪魔しないように、わざと用事があるようなふりをして、その場から離れた。

 いい場所があるの。恵津子さんにそう言われて、私は午後から遺影を撮る場所を案内してもらった。そこは公園の端の地味な植え込みと古いベンチしかない場所だった。
「綺麗に撮ってよ」
 そう言って、恵津子さんがベンチに座った。
 誕生日か。私は一眼レフカメラを構えながら、心の中でそう呟いた。
 私は雄介たちに祝ってもらえるのだろうか。藤村さん夫妻と奈々ちゃんの笑顔を見てから、私は不安でたまらなかった。今年の誕生日が、雄介たちと一緒に暮らしてから初めて迎える誕生日だった。
 もし祝ってもらえるのなら、テーブルにはその日の主役の好物が並んでいるだろうし、最後にケーキが出てくるはずだ。雄介たちの誕生日がそうだった。今年もみんなの誕生日が来て、みんなで祝うのだろう。その様子を想像すると、胸がずきりと疼いた。

「撮った?」
 まだ、と私が答えると、しっかりしてよ、と恵津子さんが腰に手をあてながら言った。
「そうね、死んだあとの顔になるんだもの。綺麗に撮らないと」
 そうよ、と言って恵津子さんが笑った。私はその瞬間にシャッターを切った。

 撮影会が終わって、行きつけの写真屋でプリントを頼んでバスに乗った。三十分くらいで仕上がると言われたものの、どこかで時間を潰す気力がなくて、後日、受け取りにいくことにした。
 私は座席の背にべったりともたれた。だらしない格好だ、と思いつつ、疲労には勝てなくて、その姿勢のままバスに揺られた。バスがとまるたびに、太ももの上のリュックサックがかさりと音を立てた。
 写真を始めたのは、やってみたら、と雄介に紹介されたからだった。それは雄介の知人のお父さんが中心となって活動している写真同好会で、私と同年代の人たちが多く参加していた。
 あれから、もうすぐ一年。もう、ではなく、やっと、と言いたくなるような長い一年だった気がする。

 停留所で家族連れがのってきた。幼稚園に通っていそうな男の子を連れた若い夫妻だ。バスがゆっくりと走りだして、さっきのってきた男の子が興奮した声で何か話し始めた。
 奈々ちゃんと藤村さん夫妻はきらきらしている。今日の撮影会を振り返るうちに、そんな感想が頭の中に浮かんだ。きっと息子さん家族とも仲が良いのだろう。こんなことを言うと藤村さん夫妻に笑われるかもしれない。こんなの普通よ、と恵津子さんなら言うだろう。私は苦笑した。藤村さん夫妻が特別に見えるから、私は普通じゃないのかもしれない。
 耳がひくりと反応するアナウンスが聞こえて、私は席に座り直した。これから、あの家に帰るのだ。私は自分にそう言い聞かせながら降車ボタンを押した。

                 *

 テレビを消すと、肌寒さを覚えるような静けさが広がった。私は食器を流し台に運んで、誰もいないリビングを眺めた。雄介と里美さんは仕事に、優太は学校に行っている平日の昼間は、テレビ番組も、リビングの風景も、毎日似たようなもので、彩りをがらりと変える天気さえ今週は晴ればかりで、同じ写真を見せられるようなつまらない風景が続いていた。
 緑茶を淹れて、私は和室に戻った。さて、どうやって時間を潰そうか。引き戸を閉めてからも、そこから動けなかった。掃除も、カメラのメンテナンスも、数日前にやったばかりで、本棚にある雑誌や写真集は何度も読み過ぎて、しばらく手に取りたくなかった。
 仕方ない、昨日、買った雑誌を読もう。私は机の前に座って、緑茶を啜ってから、雑誌の表紙をめくった。写真家のインタビューや作品、カメラの批評、コンテストの一覧など写真に関する情報が詰め込まれた雑誌で、昨日のうちにすべて読んでいた。

 こんなことだから読む本がなくなるのだ。そんな言葉が洩れそうな苦い気分も、ページをめくるうちに薄まった。プロもアマチュアも関係なく、どの写真も自分だけの持ち味があって魅力的だった。
 私と何が違うのか、そこには技術だけではない、もっと感覚的な違いが潜んでいるような気がした。

 ページをめくる手をとめて、私はあるページに見入った。そのページは読者が撮ったお気に入りの写真を集めた、私の一枚、という特集だった。私はこの特集が好きだ。写真を通して、みんなの思い出を共有できる楽しさがあって、見ているだけで笑顔になれるから。
 写真を見ていて、私はあることに気づいた。どの写真も生き生きとしていた。それは作品として撮影された写真にも共通していることだった。
 もしかしたら、撮影した人の人柄が写真にあらわれているのかもしれない。性格や生い立ち、撮影した瞬間の気持ちが、目に見えない超音波のように何かを伝えているとしたら、今まで自分が気に入る一枚がないのも納得できた。
 さすが清江さんね、と言って、一眼レフカメラを確認する恵津子さんの姿が目に浮かんだ。恵津子さんに頼まれて私が撮った遺影。私としては、あと数枚撮りたかった。でも、恵津子さんが気に入ってくれて、あの一枚で撮影が終わったのだった。

 そうだ、遺影を撮ろう。そう思い立って、私はリビングから椅子を運んで、その向かいに三脚を立てて一眼レフカメラをのせた。
 恵津子さんの遺影を撮ったときには、遺影か、とあまり興味がわかなかった。でも今になって、恵津子さんが言っていた意味が理解できた。死んだからと言って、遺影の中の顔まで死んでいるのは女として嫌だった。どうせなら自分が気に入っている一枚を、少しでも綺麗な顔を、自分として残したかった。
 私はピントを合わせてから、昔から気に入っている浴衣に着替えて、化粧をした。鏡に映る自分をまじまじと見ていると、老けたな、と思った。十年前はもっと髪が多くて、皺も少なかったはずなのに。そんな差はない、と周りは言うかもしれないが、少なくとも、こんな陰鬱な空気を纏ってはいなかった。もっと早く遺影を撮るべきだった、と後悔した。

 セルフタイマーをかけて、私は椅子に座った。どんな表情をしようか、と悩みながら、カメラのレンズをまっすぐ見て、遺影なのだからほんの少しだけ微笑むくらいでいい、と決めたときにシャッター音がした。
 きっと変な表情をしているはずだ。私は溜め息をつきながら画像を確認した。レンズをぎっと睨んで、唇が卑屈に曲がった、苦痛の表情が写っていた。なんだ、この顔は。こんな顔を遺影にしたくはない。
 もう一枚、写真を撮って、私は画像を確認した。今度は笑っているものの、どこか嫌々笑っているような表情をしていた。

 私は一眼レフカメラの電源を切った。おそらく何枚撮っても私が気に入る写真は撮れない。笑っているのに、笑っていないように見える、あの陰気な顔を見てしまうと、これ以上、撮り直す気になれなかった。

                 *

 人はこんなにも簡単に死んでしまうものなのか。棺の中で眠る恵津子さんを見ながら、私はそう思った。雨がぽつぽつ落ちる肌寒い午後で、葬儀は藤村さん夫妻が住む街のお寺で始まった。
 お経に木魚の音、線香のにおい、どんよりと沈んで見える喪服の黒色。裕次郎さんも、奈々ちゃんも、藤村さん夫妻の息子さん家族も、みんな泣いていた。もちろん私も泣いた。どこを切り取っても日常とは違う景色で、何度経験しても、この景色が苦手だった。

 この歳になって、友人や知人の訃報を聞くたびに、そのうち私もこうなるのだ、と考えるようになった。亡くなるまで病気と闘った人や恵津子さんのように突然亡くなった人、みんなに看取られた人や孤独死した人、たくさんの終わりの形がある中で、私はどれになるのだろう、と想像して、いつも最後に残る言葉は同じだった。
 どんな死に方でも構わないから、最後はみんなに見守ってもらいたい。ひとりぼっちの寂しさは、どれだけ年を重ねても慣れないものだと知っているから。

 葬儀が終わって、私は後片付けを手伝った。あとは大丈夫だから、とお寺の外まで裕次郎さんが見送ってくれた。
「だから縁起でもないって言ったんだ」
 裕次郎さんが冗談っぽくそう切り出した。
「たぶん、そう言っても、あいつは怒るんだろうな。だから言ったでしょ、こういうときのために撮ったんだって」
 裕次郎さんが空を見上げた。傘から伝わる雨粒は相変わらず軽くて、空には薄い雨雲が広がっていた。

 夫が死んだとき、私はひとりで過ごす不安に悩まされた。夫と結婚する前はひとりで淡々と過ごしていたはずが、夫と一緒になってから、その淡々とした毎日をひとりで過ごせる自信がなくなってしまった。夫に甘え過ぎたのかもしれない。自分をそう責めながら、どうにかひとりで過ごしていたものの、心が悲鳴を上げるように私は倒れた。それが一年前の出来事だった。そんな私を気遣って、一緒に暮らそう、と雄介たちが言ってくれた。今では、雄介も、里美さんも、優太も、そばにいてくれる。それなのに、私は今もひとりで過ごす不安に怯えていた。

 私は藤村さん夫妻のようにはなれない。公園で奈々ちゃんと話す藤村さん夫妻を、葬儀で涙を流す裕次郎さんや奈々ちゃんたちを思い浮かべながら、そう痛感した。私と雄介たちは同じ空間にいても、写真の中の被写体とその写真を眺める人のようにまったく違う世界に住んでいる。だからいつまで経っても、お互いの空気が混ざり合うことがないし、雄介たちの言動が違う世界の出来事のように思えるから、あのリビングが眩しく映ってしまうのだろう。
「よかったらあのときの写真、来月の撮影会に持ってきてよ。せめて俺が持ってないと、あっちに行ってまで小言を言われそうだから」
 私は裕次郎さんの弱々しい笑みに向かって、ええ、必ず、と短く答えた。

                 *

 五月に入って二週間が経った。恵津子さんが亡くなってから、今日で一カ月になる。あの葬儀はこれまで経験してきた知人との別れと同じように、私の日常に大きな変化を与えなかった。
 裕次郎さんはどうなのだろう。恵津子さんがいなくても、今までのように生きられるのか、それとも私のように不安に押し潰されていつまでも後ろばかり見てしまうのだろうか。
 和室の引き戸が開いた。見ると、優太が廊下に立っていた。
「ごはん、できたよ」
 うん、と私は答えた。いつもならすぐに引き戸を閉める優太が、今日は引き戸に手をかけたまま私を見ていた。

「どうしたの?」
「おばあちゃん、元気がないと思って。お父さんもお母さんも心配してるし」
「大丈夫。おばあちゃんは元気よ」
「どこが」
 優太の口調も、表情も、珍しく険しかった。
「僕が知ってるおばあちゃんは、もっとお喋りで、もっと笑ってた。違う?」
 私は何も言えなかった。夫がいた頃の私、夫がいなくなってひとりになった頃の私、どちらの私も、今より明るくて、生気に満ちていたのは間違いなかった。
「優太の言うとおりよ」
 これ以上、嘘をつけないと思って、私は素直に認めた。優太は少しの間、顔をそむけて、やっぱり、と言いづらそうに切り出した。
「僕たちと一緒になるのが嫌だった?」
「嫌じゃないわ」
「じゃあ、なんでそうなるの」
 優太の必死な目が頬をはたくように私をとらえた。私は、それは、と呟いて、それ以上、言葉が続かなかった。

「ほら、やっぱりそうじゃん」
「だから嫌ってわけじゃ」
「もういい」
 そう呟いた声は怒りを堪えるように震えていた。私の言葉は優太を傷つけるだけだ。優太の歯を食いしばるような表情を見て、そう気づいた。私は邪魔なのだ。私がいることで、みんなに迷惑をかけるのなら、私はそばにいるべきではない。
「嫌なら嫌って、そう言ってくれていいんだよ?」
 出ていくわ、と私が言う前に、優太の声が耳に入った。
「おばあちゃんが何を言っても誰も責めないし、どうしたらおばあちゃんのためになるか、みんなで考えるからさ、ひとりで抱え込まないでよ。家族でしょ?」
 私も、家族。胸の中でそう反芻しながら、私は優太を見つめた。優太の言葉が嬉しいはずなのに、どうしても、嬉しい、と言えなかった。優太が悪いのではない。悪いのは私だ。私が素直になれば、私が前を向けば、雄介たちと同じ世界で暮らせるのに、そうするための自信が私にはなかった。

 優太は、行くね、と言って引き戸を閉めた。私はしばらくの間、抜け殻になったように動けなかった。

                 *

 緑がテーマの撮影会が先月と同じ公園で始まった。私はいつものように裕次郎さんと一緒に撮影する場所を探していた。
「今年の夏も暑くなりそうだ」
 裕次郎さんが空を見上げながら言った。白い雲がゆったりと流れる、汗ばむような暑い日だった。

 裕次郎さんはいつもと変わらない様子だった。ただその姿は私たちを安心させるための嘘かもしれない。みんな同じことを考えていたのか、誰も恵津子さんの話をしなかった。
 できることなら、このまま恵津子さんの名前を出さずに終わりたい。でも、あの写真を渡す以上、恵津子さんの話を避けられない。どうせ渡すなら帰りにしよう。それならすぐにその場を立ち去れる。私の少し前を歩く裕次郎さんを見ながらそう決めた。

「ここにしよう」
 裕次郎さんが足を止めたのは、私が恵津子さんの遺影を撮ったあのベンチだった。
「恵津子の写真、見せてくれる?」
 ベンチを見つめながら裕次郎さんが言った。まさか裕次郎さんからその話を切り出すとはまったく考えていなくて、何も言葉が浮かばないまま、私はリュックサックから出した写真を裕次郎さんに渡した。

「見てよ、この顔」
 裕次郎さんが不器用な笑みを浮かべて、私に写真を見せた。ベンチに座った恵津子さんが悪戯っぽい笑みを浮かべて写っていた。恵津子さんの表情の中で、私が一番好きなのがこの笑顔だった。
「やっぱり、ここだったのか」
 写真を眺めながら裕次郎さんが言った。
「昨日、奈々にこの写真のことを話したら、おばあちゃんならきっとあの場所で撮るって言って、まさかと思ったら本当だった。奈々はおばあちゃん子だったから、俺よりもあいつのことをよくわかってるよ」
 裕次郎さんが懐かしむように言った。

 今も恵津子さんを引きずっているのかもしれない。ぎこちない笑い方が、そう感じさせた。それでも裕次郎さんには今までと変わらないどっしりとした雰囲気があった。恵津子さんではない、他の誰かに支えられているような安心感が、裕次郎さんの目に力強さとなってあらわれていた。
「あいつらしい、いい写真だ。清江さんに撮ってもらって正解だったよ。ありがとう」
 葬儀では見せなかった爽やかな笑顔で裕次郎さんが言った。

                 *

 先週の撮影会で撮った写真を眺めながら、駄目ね、と私は呟いた。今回も私が満足する写真がなかった。
「ごはん、できたよ」
 和室の引き戸を開けて優太が言った。私が、うん、と答えると、優太は静かに引き戸を閉めた。

 私は廊下に出て、リビングのドアの前で溜め息をついた。優太との一件があってからも、私はこの家に馴染めていなかった。きっと、このドアの先は今日も眩しいはずだ。私はいつになったらこの家に馴染んで、前を向けるようになるのだろう。

 ドアを開けて、リビングに入ると、ぱんっ、という破裂音と虹のような紙テープが私に降りかかって、私は思わず目を閉じた。
「誕生日、おめでとう」
 雄介たちの声が聞こえて、私はゆっくりと目を開けた。テーブルの前で雄介と里美さんと優太がクラッカーを私に向けて立っていた。
「今日、おばあちゃんの誕生日だよね?」
 確認するように優太が訊いた。私は混乱した頭で壁にあるカレンダーを見た。今日は五月二十九日。私の誕生日だった。
 私が、ええ、と答えると、ほらね、と雄介と里美さんに向かって優太が自慢げに言った。
「みんな覚えてたでしょ?」
 クラッカーを集めながら里美さんが言った。
「ほら、座って」
 雄介に促されて、私は自分の席に座った。テーブルには肉豆腐や焼き魚、ひじきの煮物など、この家に来てからあまり見ない料理が並んでいた。
「和食が好きってイメージだったから」
 そうね、と優太に向かって里美さんが笑った。ようやく頭の中が落ち着いて、この状況が理解できた。そうか、私の誕生日を祝ってくれているのだ。

「改めて、誕生日おめでとう」
 みんなが席に着いて、雄介がそう切り出すと、里美さんと優太が、おめでとう、と続けて言った。みんなが笑顔で私を見ているのが、はっきりとわかる。私は初めてこのリビングが眩しいとは感じなかった。ひとりひとりの顔がしっかりと見える優しい明るさがリビングを照らしていた。
「ありがとう」
 私は、これが夢ではありませんように、と心から願いながらそう答えた。
「よし、食べるか」
「その前に、せっかくだから写真撮ろうよ」
 優太の提案に、そうだな、と答えて雄介が携帯電話を出した。どうせ撮るならちゃんとしたカメラで綺麗に残したい。そう思って、
「私が撮るわ」
 と、つい言ってしまった。雄介たちは、驚いたような、物珍しいものを見るような、そんな顔で私を見ていた。

 じゃあお願い、と雄介に頼まれて、私は和室から一眼レフカメラと三脚を持ってきた。私が準備する様子を、雄介たちは興味深そうに見ていた。
「いい? 撮るよ」
 私はセルフタイマーをかけて自分の席に戻った。みんながそれぞれポーズをとって一眼レフカメラを見た。そろそろよ、と私が言った数秒後にシャッター音が響いた。
「上手く撮れたかな?」
「もちろんよ」
 私は優太に向かって大きく頷いた。この写真だけは綺麗に撮れている。そんな予感がしていた。もしピントがずれていたとしても、私が自信を持ってみんなに見せられる一枚になっているはずだ。

 この写真をすぐにでもみんなに見せたい。そうだ、あの雑誌の特集に送ろう。そう決めながら、私は一眼レフカメラの画面を見た。そこには、楽しそうにテーブルを囲む四人の姿が映っていた。〈了〉


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