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日記

 どん、と空を脅すような音がした。どこかで花火が始まったらしい。
 夏の音だ。そう思うと興奮して、どこの花火大会なのか調べようと思ったけれど、調べたところで、とノートパソコンを見たときに冷めてしまった。

 間抜けな間をあけて花火の音が続く。さっきまで、夏の音だ、と心を動かされた音も、今はただの音でしかない。でも、こんな瞬間があるからこそ、振り返ったときに、その時間が特別に思えるのだ。嬉しい思い出は、いつ思いだしても嬉しいし、悲しい思い出は、いつ思いだしても悲しい。
 どん。どん。ばちばちばちばち。
 あのときには戻れない。だから僕は日記を書く。一瞬を切り取る写真のように、その日の記憶と気持ちを未来に残そうとする。

 窓を見ると、雨雲を駆ける雷のように夜空の奥がばちばちと光った。閃光から随分と遅れて花火の音がする。網戸越しの蒸し暑い風。肌を撫でる、扇風機の風。
 たまに日記を読み返すと、どの思い出も輝いていた。嫌な思い出は鈍い光を、嬉しい思い出はあたたかな光を、ひとつひとつの文字が放っていた。ついさっきも、僕は一年前の日記を読んだ。去年の八月十日は海に行っていた。僕と歩美と孝太郎の三人で。僕と孝太郎は水着を、歩美は水着の上に空色のシャツを着ていた。僕も歩美も久しぶりの水着だった。そして、家族三人で行った最初で最後の海になった。その思い出は鈍い光を放ち、時おり、花火のように眩しかった。

 あれから一年、僕たちは変わった。お互いの居場所も気持ちも離れて、僕はひとりになった。考えてみれば、どっちも悪いような気がしたけれど、終わったことを掘り返しても仕方ない、と強引に結論づけた。たしかに浮気をしたのは僕だ。でも歩美だってしていたのだ。それも、僕より先に。なのに僕が先に見つかったばかりに、僕だけが責められて、離婚したのだ。
 離婚してから歩美とは会っていない。孝太郎とは月に一度だけ会っている。あのとき関係を持った人とは別れた。僕は今、ひとりだ。その時間は悪くないし、それなりに楽しい。ただ、三人で過ごした時間は今でも眩しかった。我ながら女々しいと思いつつ、でも、あのときの幸せそうな自分を見ると今の自分が霞んだ。離婚して、今日で三か月。過去の日記を読む回数が日に日に増えている気がする。
 今日は、このあたりでやめよう。いつの間にか、花火の音が止んでいた。〈了〉

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