よっしー

塩竈の歌姫asariさんのファンです

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最近の記事

高校野球と私(8)

とうとう高校3年生になりました。 春の県大会は仙台商業に敗れ、夏の県大会は仙台育英に敗れました。 この年、宮城の高校球界からは3人がプロへ進みました。 金村(仙台育英)→日本ハム、桜井(仙台工業)→日本ハム、嶋(東北)→広島。 この3人は次元が違うと感じていたので、プロ入りは納得でした。 ちなみに嶋は埼玉県上福岡市の出身です。 引退した後の8月、人生初の阪神甲子園球場へ行きました。 野球部の仲良し3人組で仙台からバスで向かいました。 甲子園球場の感想は、一言「デカイ!!」

    • 高校野球と私(7)

      我が母校は、石巻高校との定期戦を行っていました。 会場は石巻野球場。 両校とも全校応援です。 1年生の時はコールド勝ち。 2年生の時は…忘れました。 3年生の時は…忘れました。 私は3年生の時に代打で出場、向こうのエースからライト前ヒットを放ちました。 私は左バッターなんですけれど、向こうのエースは左腕、その左腕から放たれた背中から中に入ってくるカーブを狙い打ちしました。 私のヒットを皮切りにチャンスを拡げ、私はホームベースを踏んだ記憶があります。 さて話を2年生の時に

      • 高校野球と私(6)

        高校2年になりました。 私は下手くそなのでベンチ外です。 でも、応援好きな私にとっては好都合でした。 野球部の応援団長に任命されました。 応援のリードをとるわけです。 先生に頼んでバスドラムを借りました。 仙台育英や東北に負けないクオリティを目指しました。 幸いにも初戦と2戦目がテレビ中継され、私の声(リード)が電波に乗りました。 何度も応援風景がテレビに映りました。 「非常に統率の取れた応援」とアナウンサーから褒められました。 してやったりです。 この年はリードをや

        • 高校野球と私(5)

          1年生の春と夏、私の母校は躍進しました。 春が県4強、夏が県8強。 創部以来最高の成績を残しました。 そんな中、私はスタンドで活躍しました。 控え部員による口ラッパ応援が主流なのですが、私のトランペットとチアホーンが大活躍したのです。 トランペットは私が吹き、チアホーンは応援団長を努めた2年生が吹きました。 その姿がNHKの電波に乗り、県域で放映されました。私のテレビデビューです。 吹奏楽部がなかった高校でしたので、トランペットによる応援が新鮮で、試合に出ていた先輩方は

        高校野球と私(8)

          高校野球と私(4)

          私は小学4年から野球を始めました。 地元のスポーツ少年団に入りました。 とにかく下手くそでした。 中学ではヤンチャしてました。 そして高校入学。 迷いなく野球部に入りました。 中学で遊んでいた分、同級生との差がありすぎて困りました。 少しでも追いつく為に、帰宅してから市民体育館へ通い、ランニングと筋トレに励みました。 自分いじめを続けた結果、野球部1年生の持久走で上位に入れるまでになりました。 学校のクロスカントリー大会(31キロマラソン)では、約600人中31位という成

          高校野球と私(4)

          高校野球と私(3)

          前回は「石巻野球場」のショボさについて触れました。 その石巻野球場は、プロ野球の2軍戦を招致する為に改装されました。 しかし十分とは言えず、「二度と来ない」と言われたんだとか。 無理もありません。ロッカールームは無いし、シャワールームも無いし、トイレはボットンのママでしたから。 グラウンドもデコボコ土のママでしたし、相変わらずバックネット裏は土盛りでした。 その数年後、大規模な改修が施されました。 ロッカールームと水洗トイレが設置されたのです。 驚くことに、バックネット裏が

          高校野球と私(3)

          SNSとは何なのか?

          断定できないけれど、プロレスラーの木村花さんが、SNSで受けた誹謗中傷を苦に自殺したと思われる。享年22歳。 人は何のために人を誹謗中傷をするのか? それが何の役に立つのか。 答えはひとつ。 欲求不満を解消しているだけ。 私も過去にSNSで人を誹謗中傷していた。 しかし、そんな自分が情けなく感じたから止めた。 所詮は欲求不満の解消でしかなかった。 自分の正義感や道徳観を、他人に押しつけたところで、何の生産性もない。 時間と労力の無駄。 人を誹謗中傷する暇があるのなら

          SNSとは何なのか?

          高校野球と私(2)

          毎年5月、石巻野球場で「県下選抜高校野球大会」というのがありました。 これは宮城県高校野球連盟石巻支部が主催する大会で、秋の県大会4強+春の石巻地区大会4強の計8チームによるトーナメント戦です。 小学校1年生のとき仙台から石巻へ引っ越し、その2年後、この大会と出会いました。 県で一番の野球場である宮城球場を見慣れていた私にとって、石巻野球場のショボさは衝撃的でした。 スタンド全てが土盛り、草も生えていない内野席、雑草まみれの外野席、ラバーの無いフェンス。 なんてった

          高校野球と私(2)

          高校野球と私(1)

          私は元高校球児です。 現役最後の相手が仙台育英でした。 コテンパンにやられました。 さて、新型コロナウイルスの影響により、春に続き夏も中止になりました。 あ、そうそう、高校野球の話です。 3年生はもとより、3年生と一緒にプレーすることを断たれた下級生も可哀想な話です。そして、その関係者も。 高校野球が始まったのは大正時代。 朝日新聞社が新聞の講読者を増やす為に企画し、開催しました。 その10年後、二匹目のドジョウを狙って毎日新聞社が春の大会を始めました。 夏の大会は豊

          高校野球と私(1)

          ラジオと私(最終回)

          私はラジオにリスナーとして2回出演したことがあります。 1回目はTBC東北放送、2回目はNACK5です。 いづれも番組のコーナーに電話での出演でした。 また、メッセージを応募して読まれたり、リクエストをかけてもらったりもしました。 エフエム仙台、ラジオ石巻、BayWave、エフエム岩沼、さくらエフエム、α-stationなど。 そして、出会いがありました。 asariさんという素晴らしい歌手との出会いがそれです。 この出会いが出会いを呼び、仙台や福島、関西へも行くことがあ

          ラジオと私(最終回)

          ラジオと私(7)

          いやぁ、せっかく書いた記事を誤って消してしまうというミスを犯しまして、改めて書いています。 さて、今回はスマホでラジオを聴けるようになったことで、私のラジオライフがどのように変わっていったかを書こうと思います。 私のスマホデビューは遅く、2015年だったと記憶しております。 その時はスマホでラジオが聴けるとは知らずにいました。 スマホのアプリを眺めていると、LISMOWAVEというものがありました。 これは、auのスマホにインストールされている、全国のエフエムを聴くことが

          ラジオと私(7)

          ラジオと私(6)

          さて、私は何度か引っ越しをしておりますが、埼玉県富士見市に住んでいた頃の話です。 3バンド対応のラジオがありまして、丘の上に住んでいたものですから受信状況が良く、様々な短波放送を聴くことができました。 ラジオNIKKEI第1と第2はもちろんのこと、海外の放送も受信できました。 その中で紹介したいのが「朝鮮の声」日本語放送です。 ニュースや音楽を流し、在日から送られたお便りを読んでいましたね。 昔は工作員向けに乱数暗号を流し、拉致事件に関与していたとされております。 外国によ

          ラジオと私(6)

          ラジオと私(5)

          朝起きたらラジオ。 通学中にラジオ。 帰宅したらラジオ。 寝るまでラジオ。 ほーんとラジオ三昧。 今でも覚えている番組名を、挙げられるだけ書いてみます。 1.大学受験講座(エフエム仙台) 2.百万人の英語(エフエム仙台) 3.コットンキャンディ(エフエム仙台) 4.サウンドドレッシング(エフエム仙台) 5.男女りすなぁ若者語(TBC東北放送) 6.朝の百貨店案内(TBC東北放送) 7.ラジオ巌流島(TBC東北放送) 8.内田有紀の夜空にyou kiss(TBC東北放送)

          ラジオと私(5)

          ラジオと私(4)

          小学生の頃は、デスクに乗る小型ラジオを重宝していました。 はじめが横長の赤いやつ、二代目がトランシーバー型の黒いやつ。 それとベッド専用のカレンダーつき。 赤いやつはエフエム仙台を聴くのに適していました。 黒いやつとベッド専用のやつはNHKラジオ第一やTBC東北放送を聴くのに適していました。 AMラジオの不思議なところは、ラジオの向きによって受信状況がかわること。 南北向きは悪く、東西向きは良かったですね。 しばらくすると、どでかいコンポが我が家にやってきました。 部屋

          ラジオと私(4)

          ラジオと私(3)

          私は仙台市生まれです。 小学校1年の時に石巻へ引っ越しました。 最初がばあちゃんち、次に住んだ家がヤヴァイ家でした。 1階がスナック、2階が居住スペースというものです。 朝と昼は静かですが、夜になると酔っぱらいの声やカラオケの音声がハンパなかった!笑 1階のスナックでは母親が働いているので、2階にいる私はテレビを見るかラジオを聴くかの二択でした。 ある日、なんとなく新築のアパートを見に行ったのですが、あまりの綺麗さに圧倒され、母親におねだりしてアパートへ引っ越すことになり

          ラジオと私(3)

          ラジオと私(2)

          前回はラジオとの出会いについて書きました。 今回からラジオにハマっていく過程を書いていきます。 母親が夜の仕事をしていたので、私は夜を一人で過ごしていました。 テレビは見ていましたが、ラジオの方が面白かった記憶があります。 なんででしょうか、姿や形が見えない相手の話を聴くのが楽しいと思えたのでしょうね。 この頃は番組を楽しむよりも、音が出る仕組みに興味がありました。 ラジカセを使い、自分で番組を作り録音する「ラジオごっこ」をして遊んだものです。 さて次回は、ラジオライフ

          ラジオと私(2)