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今敏監督の「さようなら」

   2010年8月、アニメ監督である今敏の訃報は、私にとって衝撃的なニュースであった。ベルリン国際映画祭や、ヴェネチア国際映画祭に出品するなど、国際的にも注目されていたアニメ監督であり、かねてから、「東京ゴッドファーザーズ」や「パプリカ」、「千年女優」といった、斬新で、幻想的な映像と空想的なストーリーの着想に、クリエーターとして憧れを持っていた。
訃報のニュース自体、悲愴な思いをもったものだが、それにも増して、今敏が死の直前にインターネットに公開した「さようなら」という文章が今も強く印象に残っている。この文章は、現在でも、彼の公式ホームページに掲載されており、インターネット上で今敏の遺書として話題となった。


 その文章には、膵臓癌を宣告されてからの闘病生活や、家族、友人への感謝のメッセージ、次回作についてなどが独白的に書かれている。印象深い文章をいくつかあげてみる。
『抗ガン剤は拒否し、世間一般とは少々異なる世界観を信じて生きようとした。「普通」を拒否するあたりが私らしくていいような気がした。どうせいつだって多数派に身の置き所なんかなかったように思う。』
『さて、あとは自宅で死を待つばかりのはずだった。/ところが。/肺炎の山を難なく越えてしまったらしい。/ありゃ?/ある意味、こう思った。/「死にそびれたか(笑)」
その後、死のことしか考えられなかった私は一度たしかに死んだように思う。朦朧とした意識の奥の方で「reborn」という言葉が何度か揺れた。/不思議なことに、その翌日再び気力が再起動した。』
死を前にした深刻さを微塵も感じさせないこれらの文面は、特に心打たれる個所であった。そして、「じゃ、お先に。」という最後の言葉も今監督らしい。


    今監督は生前、癌の事実を隠し、毎日のようにブログを更新していたそうであるが、時に、ブログ調の客観的な文体で、死を目前にしながら冗談や自嘲的な笑いを交えている個所もある。それを読んだとき、46歳という若さで予期せぬ宣告を受けてから、これからの創作に対する意欲と闘病生活の狭間にはいい知れぬ葛藤があったであろうことを想像し、冷徹な事実に言葉を失った。同時に、死の直前にある言葉がこのような形で人に読まれることがあるのかと奇妙な感覚をもった。
今氏は、意図的に不特定多数の人に向けて、この最後のメッセージを公開したのであるが、ペンで書かれたものでもなく筆圧もない、フォーマット化されたコンピューターの文字である。それは、淡々と、1ミリの行間の狂いもなくただ機械的に冷たく並んでいる。そして、一度ブログ上に記号化された言葉は、キーボードでコピーし貼り付けることによって、いとも簡単に引用し、即席に転用することができる。私が、初めて「さようなら」を読んだ掲示板は誰か個人のブログであったと記憶している。その死の淵にあるメッセージは、ブログの画面の上で卑猥なポルノ広告に板挟みされて、ある種残酷に映った。インターネットに掲載された機械的な文字と今敏の最後の声のあいだには不可解さがあるように思う。そして、この文章がこのようなブログの中に埋もれていいのかと疑問を感じた。


 最近では、フェイスブックやツイッター等のソーシャル・ネットワーク・サービスを通じて他人の個人的な文章を読むことが容易にできる。私たちは、そのウェブサイトを自分のページや部屋のように捉えている。しかしそれは、ノートの紙のように純粋に白くもなく、完全な密室でもない。インターネット上に他人が構築しデザインしたページを借りて、コンピューターの文字に自分の声を置き換えて私たちは文章を書いている。私たちは、限りなくプライベートなことを書くと同時に、頭の片隅で誰かに読まれることを無意識に想定している。自分にとって、他人に知られてもいい本音を書いているのである。


 近年、日記を書くことは、数十年前と比べて珍しくなった。日記を書くことは、個人的な体験を自分の言葉で記録する行為である。それは、独白的で個人的な行為であるがゆえに他人に読まれることにためらいを感じる。現在の私たちは、ノートにペンで日記を書く代わりにツイッターに日常の出来事や写真を掲載する。使い方によっては、匿名性とプライバシーを盾に、他人を中傷し、非難することもできる。コンピューターによって平均化された文字と空間で、プライバシーを曖昧にすることができるのである。しかし、一方で世界中に自分の声を発信できる開かれた場所としても機能している。インターネットはもはや、知識を収集するための場所、商品を購入する場所としてだけには留まらなくなった。生から死までの人間の人生を情報化する空間、言い換えれば、今生きていることだけでなく、生きていたという事実をも本人によって保存できる場所となった。
 今敏は、死の床にある最後の言葉をインターネットに掲載し保存することを望んだ。それは、彼にとって人生最後の自己表現であり、不特定多数の人たちにむけての告白でもある。彼の、「さようなら」は、インターネット上に掲載されている言葉の奥行と、架空の個人が存在する場所として、インターネットの存在意味を再度考えさせてくれた。


 映画の中の情景やキャラクター達の会話は、物語の台詞であると同時に作者の思想を代弁した言葉でもある。今監督の死から数年たった今でも仮想空間やインターネットに精通していた今監督のこの行為を、私は幻想的で夢想的な今監督のアニメ映画と重ね合わせている。筒井康隆の同名小説を原作とした代表作「パプリカ」の中で、少女パプリカが語りかけるシーンがある。「抑圧された意識が表出するって意味ではネットも夢もよく似ていると思わない?」
     インターネット上に口語調に書かれた最期の告白「さようなら」に、氏の解放された無意識の表出の断片に触れることができたような錯覚を覚え、改めて今監督の表現の強さを想う。

英語塾を開校し、授業の傍ら、英検や受験問題の分析や学習方法を研究しています。皆さまの学習に何か役に立つ事があれば幸いです。https://highgate-school.com/