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創作の真(神)髄(バッハ)

気が向くと私は、大好きなバッハの「ゴールドベルク変奏曲」のアリアと第一変奏だけを弾くのですが、その楽譜に以下のような言葉が載っています。

その中には、耳では感知できない、神に通じる何ものかがある。それは、宇宙と、神の創造物の神秘的・象徴的な教訓である。このようなメロディーに耳を傾け、真に理解すれば、宇宙がそうであるように、それは叡智を与えてくれるであろう。要するに、それは神の知性の耳にまで聞こえる崇高な音楽であると言える

サー・トーマス・ブラウン「医師の宗教」(1643年)

 バッハを弾くといつもこの言葉を思い出します。
トーマス・ブラウンはイギリスの作家なので、翻訳がちょっと難しい感じがしますが、バッハの音楽には神に通じる何かがあるような気がします。

 楽譜を分析し、その音楽に深く耳を傾け理解しようとしていると、不思議な感覚に陥ります。
 私のピアノ部屋は本や製作材料やらの物で溢れて足の踏み場もありませんが、ピアノの練習を始めると、そういう雑多のものは一切は目に入らなくなります。ひたすら楽譜から音楽を読み取ろうとし、その音楽を自分の音楽としてピアノの音として表現する作業に没頭するからです。
 そういう作業をしていると、上の文章(言葉)がスッと心に入ってきて、その真髄を理解したような気持になります。 

 人にはそれぞれ心(魂)の深いところに神の領域を持っていて、物事を深く理解しようとするときに、そこにアクセスできるのだと感じます。ましてや神の領域のバッハの音楽をキーとするのですから、よりアクセスしやすくなるようです。

 私にとってバッハの音楽はピアノの基礎中の基礎を学ぶためのものでもあります。
 それは「聴く」ということです。

 幼い頃よりピアノを習い始め、指を訓練し、楽譜を再現する作業が面白くて、ついつい自分の出している音を意識して聴くということが、なおざりになりがちになりました。
 指も鍛錬され、ある程度の曲も弾けるようになり、バッハのインベンションなどを学ぶ頃になると、私は自動的に楽譜を指に移すその単純作業が面白くて、すっかりそれが習慣になってしまっていました。
 自分の出している音を意識して聴くということをしなくなり、バッハや他の作曲家の曲も、ただのBGMになってゆきました。

 シンフォニア3声もレッスンしていただいていたのですが、最初のうちは2声を聴くのが精一杯でした。それも右手はよく聴こえるのですが、左手がとにかく聴こえない。何度弾いても聴こえない。

 バッハに限らず、ピアノの練習では右手と左手を別々に弾いて練習するというのが常道ですが、私はそんな練習はつまらないので、いつもすぐ両手で練習していました。右手こそが王さまで、左手はいつも従者でした。
 けれどバッハにはこれが通用しないのです。左手も右手に劣らずしっかりと主でなければならないのです。例えると右手が女王で左手が王(もしくはナイト)という感じでしょうか。女王さまはいつでも華やかでわがままです。しっかりと王さまが支えてあげないと、気ままに暴走し始めます。ふたりの絶妙なかけ合いこそが、美しい音楽を構築する要なのです。

 それに気がついてからは、ひたすら音を聴くことの訓練をしました。とりあえず2声を聴き分けるように訓練し、3声では内声は脳の端の方でデータとして認識することにしました。練習を続けていると、指は確実に楽譜を覚えてくれるので、聴くという作業に集中できるようになってきます。
 シンフォニア3声が終わるころ、左手はだいぶ聴けるようになってきていました。平均律に進む頃、ようやく3声の内声がおぼろげに聴こえるようになってきました。

 その後先生がお亡くなりになり、師を失った私は、独りでピアノを続けることになりました。私にはピアノに於いてのイメージするバッハの音があります。けれどまだそれを実現できていません。
 バッハに限らず、ショパンでもそれは同じなのですが、自分のイメージする音(音楽)を出すことがまだできずにいます。
 それは長年のピアノの練習において、自分の出す音を聴いてこなかったことにその要因があります。自分の出す音を聴けないで、どうやってイメージの音を、音楽を奏でることができるというのでしょう。

 このようなことを意識して集中的に練習していると、だんだんと聴こえるようになってきます。バッハの各声が聴こえてきて、その美しいメロディが重なり合い、美しい和声が聴こえると、それはそれは恍惚とした気持ちになり、もっともっと美しい音で重なり合えば、それこそ神の領域に踏み込んだような至福な境地に至ります。そしてそれが先ほどのトーマス・ブラウンの言葉の理解でもあったのです。
 
 このことは、ピアノ(ピアノ演奏も表現という意味からも創作であると考えます)、音楽に限らず、すべての創作の基本でもあるのではないかと思ったりもしています。それぞれの分野において、深くそれを理解しようと努力し、精進を重ね、神の領域にある宝玉をひとつひとつ見つけることが、創作の真髄のように感じます。

※note別ID(現在休止中)に投稿した記事の再掲載です。

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