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うたうな

私のピアノの楽譜には、いろいろなことが書き込んであります。何度も間違える箇所には赤鉛筆で、運指の間違う箇所には青鉛筆で印をつけてあるし、楽譜の曲の頭には、その楽曲のイメージや注意することも書いてあります。
例えばバッハのシンフォニアの一曲には「坂本龍一っぽい感じ」とか「パトラッシュと遊ぼう」とか書いてあったり。

大抵は、「拍の頭を合わせて」とか、「縦を合わせて」とか、「左聴いて」とか、等々の注意事項だけれど、中には意味不明な書き込みもある。例えば「きのこ」と書いてある。自分で書いたものなのに、一体何を言いたかったのか、さっぱりわからない、意味不明(^◇^)今もってわからない。

ショパンのエチュードOp.10-12の「革命」の楽譜の2ページ目に「うたうな」と書いてあった。それを見たとたん、もう可笑しくて、笑っちゃって弾けなくなってしまいました(笑)

よくピアノの先生が言われることだけれど、ピアノを弾くとき「歌って」とおっしゃる。『歌う?どうやって?』と内心思うけれど、それを質問したってどうせ先生にも説明できないような抽象的なことだろうから、問い詰めるようなことをしないのが、良い生徒というものだ(^◇^;

ピアノという楽器は音を出した瞬間に、音が減退してゆくので、歌や弦楽器のように音は長く持続しない。そんな楽器でどうやって「歌う」というのだろう、無茶なことを言うんじゃない(笑)

「革命」は左手の練習曲で、うねるような左手の表現が求められるが、この速いパッセージを「歌う」とどうなるのか?由紀さおり姉妹が歌うモーツァルトの「トルコ行進曲」を思い出してしまう(^◇^)かなりイメージが違うし、由紀さおり姉妹の「革命」を聴いたら笑ってしまうかもしれない(笑)

そんなことを思い起こしてはいたが、「うたうな」と書いたのには、別の意味があって、「歌う」より前に、「音を聴け」と言いたかったのです。自分の出している音を客観的に聴かず、感情を前面に出して歌うことを優先すると、結果的に「歌った気分」になっただけで、実際の音には反映されないものなのです。ピアノ(楽器)に対して、いくら感情を込めても、それを音に反映させるのは、演奏テクニックです。そのことを忘れて「革命」の気分に酔いしれて、冷静に客観的に聴くことをしていない自分への警告でした。

「革命」の冒頭には「Allegro con fuoco(アレグロ・コン・フォーコ)」=「速く、火のように、生き生きと」との記述があり、途中にも「con fuoco」「appassionato(アパッシオナート)」=「熱情的に、激情的に」の記述があります。ショパンが記述したそうした音楽用語に促されて、気分はすっかり「革命」気分(「革命」というタイトルは友人であったリストが付けたものとされています)
ショパンは自国のポーランドの「革命」に参加できなかったことを痛く後悔していたようですが、私などは「革命」と言われても実感がないわけで、想像するしかありませんが、無理やり?そんな気分を自ら作り出してしまう弊害が、「歌う」という行為でもあります。

ピアノは「歌わせる」のではなく「響かせる」ことで、音楽表現を実現できる楽器です。「独りオーケストラ」の別名もある楽器ピアノは、音域が広く、オーケストラの楽器のシュミレートが可能です。といっても、その楽器の音が出るわけではありませんが、響き(ハーモニー)によって、演奏テクニックによって、それを実現できます。

因みにそれらのことを含めて「歌う」という意味もあるのでしょうが、いまいち曖昧なので、私は「響かせる」という言葉を使っています。

「うたうな」と書かれたその箇所はまさに、気分に酔いしれて弾いてしまう箇所でした。「うたうな」の文字を見て笑ってしまったのは、「正気に戻れ」と図星の指摘をされているようで、失笑してしまったのです。

楽譜の書き込みは、過去の自分からのメッセージでもあります。ただ、あまり一杯書き込んでしまうと、何が何だかわからなくなってしまうので、そういうときは、消しゴムですっかりと消してしまいます。消しゴムのカスだらけになったピアノ周りを掃除したら、また未来の自分に向けてのメッセージを書き込むのです。


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