性格は作るものか、作られるものか


意図的にこうなりたいと考えて、実際に今の性格から変化を起こすことは可能だろうか。

きっと可能だと思う。

そもそも性格とはなんだろうか。
日々の思考が具現したものだろうか。
私の性格は私の理念に逆らわないから、そういうことなのだろうか。

だが性格は時に私の思考を裏切る。
笑うのが面倒な時でも私の性格は「ここで笑うんだ」と主張する。
そしてその主張はなぜか通る。

ここには面倒くさがる私と笑う私が存在する。面倒くさがる私と笑う私の性格が共存しているのだ。
面倒くさがる私を押しのけて笑う私がスポットライトを浴びる。

人の思考は単純でない。
嬉しいと悲しいを同時に感じて、善と悪を兼ね備える。憧れと妬みを持って笑顔を浮かべることも可能だ。

そして表に出す思考と表に出さない思考を持っている。表に出さない思考でさらに上部の思考を作り上げる。

これだけの思考があれば性格も多種多様だろう。しかし、案外人は似たり寄ったりで変わった性格の人間というのは思うほど多くない。
きっとここにも、変わった部分と普遍的な部分を人は兼ね備えているからだ。
それでも誰しもがいくつかは人と違う何かを持っている。
圧倒的に多い普遍性が共通しているだけで。

なりたい自分、それはどんな存在だ。

明るくなりたい?知的になりたい?お淑やかになりたい?格好良くなりたい?

なりたい性格のお手本はあるだろうか。

大半の人間の大半の性格は凡そ被っていて、なりたいと思う性格というのは普遍的な部分と比べとても小さい。
普遍的なところを変えるのはきっと骨が折れるが変えたいなら時間が変えてくれるのだろう。

なりたい性格の持つ理念を刻み、仕草を真似、性格から予想した言動をする。
真似っこだ真似っこ、やーい。

そうしたら何故か自分の普遍や理念と謎の融合を遂げるようになる。
完全になりたい自分になるわけじゃない。
謎の融合を遂げるに過ぎない。
キメラだ。

それがあなたの性格だ。私の性格だ。

作った結果作られた性格だ。
性格は作ろうとして、作られるものみたいだ。

実のところ作ろうと思考した時点で作られているのかもしれない。

歪なキメラ。

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