自分の知らない世界のこと

人はさ、大抵目に見えるだけが自分の世界になると思うんだ。
というか、目に見えない世界のことは推測でしか語れないよね?

昨今はネットの普及で、情報は大概錯綜している。きちんとした文献、研究資料ほど読み辛く埋もれているものだ。
さらに、確かな文献を読んだとしても、正しい理解が可能かというと、また違う。
同じ文献を読んだとしても、その人の持つ先入観と融合を果たせば、その理解の先は一致しない。
ましてや、文を正しく読むということすら、存外難しいのだ。

人の数だけ理解には差ができる。
となれば、ネットに情報が溢れるのは致し方ない。それも、己が正しいと思い載せた情報もあれば、己に都合の良い情報のみを載せている場合もある。
万人共通の事実は意外と少ないもので、あるのは大抵己の信じる真実なのだ。

なら、私たちはできうる限り、正しさを追求するべきではないだろうか。
ただ表面にあふれた誰かの言葉をなぞるのではなく、理解ある己の言葉にした己の持つ真実を。

それを果たして初めて、自分の知らない世界への言及が可能になるのではないだろうか。

無責任な言葉が溢れるのは仕方なくても嫌だ。個人的な好悪の話になるが、嫌なんだ。

根も葉もない噂の当事者にされる不愉快にきっと似ている。

好き勝手に言われ、皆が根拠もなくそれを信じ、真実のようになってしまう偽り。
至る所で見られる光景だ。
または、1の事実のせいで9の偽りまでもが真実として扱われてしまうものも。

いったいどうしてだろうね。
当事者意識もなく、野次だけ飛ばして、事実の上に己の浅い解釈を塗り固める。
己の世界のことじゃなければ、どうなろうが構やしないのか。

なら正しさすら追求する術のない人は。
そこまで考えるとやるせなくなるな。

どうか、自分の知らない世界に言及する際は、知ることを大切にしたい。
知って、理解を深めて、そして同じことを考える誰かの言葉を聞きたい。
きっと自分と反対の意見を持つ誰かと言葉を交わして、己の気付かなかった別の視点を知りたい。その上で、己の真実が未だ正しいかを改めて考えたい。

人が一人で事実に辿り着くのは限りなく難しいのだ。



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