あなたの見る月は綺麗ですか_

第一章 今日の月の形は


「あの、榊君はこのミステリーは好きですか?」


唐突に後ろから声をかけられた。始めはその問いかけが自分に向けられたものなのか、検討がつかなかった。

いきなり誰だと不思議に思いながら、ゆっくりと後ろを振り向くと、同じサークルに入っている月野が立っていた。

この問いかけが月野からだと分かって納得した。

というのも、僕と彼女は「ミステリー同好会」などという、何の活動もせずにただ小説を読んでいるだけのサークルに所属しているため、ミステリーに関しての質問をされても、おかしくはない。


彼女は3年生で、芸術文化学部に所属している。美術部にも所属しているが、息抜きや趣味の延長でミステリー同好会に通っている。

背丈は女性なら普通くらい。顔はわりと整っているし、受け答えもしっかりとしているし、礼儀も今時の大学生とは思えないほどちゃんとしている。だから男女問わず好かれている印象が、僕にはある。

他の学生とは明らかに違う、その清潔な身だしなみや立ち振る舞い、そして言葉遣いは、やはり育ちの良さからなのだろうなと、時々思う。

今日も白のワンピースに薄いピンクのカーディガンを着ている。僕の立場からは「お召しになっている」と申し上げた方がいいのかな。


「あーその本か。読んだことあるよ。て言っても、高校1年生のころだけどね。すっかり内容忘れちゃったよ。」

確か、ある高校が舞台の甘酸っぱいミステリーじゃなかったかな。

ジャンル的には珍しかったから、その印象だけは覚えている。

「そうなんですか。私のおススメなのでまた読み返してみてくださいね!

 そして感想お願いします!」

彼女はそう言って、後ろで縛った長い髪を揺らしながら、次の授業へ向かっていった。

同い年だから敬語を使わなくてもいいのに。まあ、それが彼女の魅力の一つでもあるんだろう。

僕も次の講義へ歩みを進める。苦手なミクロ経済学だから足は重いのだが。


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7月の上旬ーー

校内はテスト期間ということもあり、普段よりも静かだ。

僕の所属している経済学部は既にテストの半分を終えていた。

講義が終わり、いつもならミステリーサークルに行って暇な時間を潰すのだが、流石に試験勉強をしないとまずい。

単位は一度も落としたことはないが、ミクロ経済学の講義は雲行きが怪しい。


外に出ると既に夏の兆しが五感から感じ取れた。

校内の中心に聳え立つ大きな木からの、夏独特の葉の臭い。

その木にいるのであろう蝉の声。

空をより魅力的に飾っている入道雲。


もうそんな季節かと思いにふけっていた時、あの言葉が頭の端っこでリピートされた。

「そして感想お願いします!」

彼女の服装や髪形が夏らしいからか。なぜか思い出された。

とは言っても、まだその本を読んでいないし、読める時間もあるわけがない。彼女もすぐに感想が欲しいわけではないだろう。

家に帰ってから勉強の合間に読もう。


僕は大学には基本的にバスで来ている。だがそれは春、秋、冬限定。

夏は原付で通学している。夏の暑い日にバスの人混みの中なんかに入りたくなかったし、なにより原付なら夏の風を感じ取れる。

駐輪場に向かい、愛車の白と茶色で彩られたビーノに乗る。

まだ試験中だからなのか、僕以外に駐輪場人は誰もいなかった。

エンジンをつけたところで前方を見ると、誰かが歩いてくるのが確認できた。見覚えのある髪形と背丈だ。こっちに手を振って歩み寄ってきた。

「もう帰るのか?」

そう僕に声をかけたのは、ミステリーサークルのメンバーで同じクラスの成瀬。高校時代に野球をやっていた成瀬は、髪が短く、高身長でいわゆる好青年だ。

今はバイトに明け暮れている。サークルには時々顔を出すくらい。それでも読書好きには変わりない。

「もう試験終わったからね。成瀬はまだあるの?」

「そうなんだよなぁ。あと二つも苦手な講義の試験があるんだよ。俺もお前と同じ講義取っておくべきだったかなぁ。教えてくれる人いないし。」

「いやいや、ちゃんと自分で勉強しろよ。」

そんないつもの何気ない会話をしてから、僕たちは別れた。


今度こそエンジンをかけて大学を後にする。

サークルが集まる棟に目をやると、一階の窓際に月野の姿がかすかに見えた。運転中だったから定かではないが。

あそこはミステリーサークルの教室か。今日も行ってるんだな。

明日は、行くか。

夏の風を感じながら、今日の一日の半分が過ぎようとしている。

気温は25度を軽く超え、原付を運転していたも汗が出てくる。

やっぱりサークル行くべきだったかな。あそこはクーラーついてるし。

後悔の念を抱く、ある夏の昼過ぎである。

今年もまた、夏がやってくる。

二度とは戻ってこない、一度きりの夏が。


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夏の夜はわりと好きだ。

そう感じさせるのは、窓から入ってくる心地よい風だったり、寝るときの布団の質感だったり、外に響く賑やかな子供の声だったり。

そんな昔と変わらずに今も残っているものに、僕は年不相応ながら心を揺さぶられるのだ。


アパートに帰る頃には既に日が落ちていた。

というのも、「あの」月野が言っていた本を探して、書店から古本屋まで走りまわっていたのだ。それは日が暮れる。

ようやく家の近くの古本屋で見つけることができた。

さっさとアパートに帰ってから本を探しに行けばよかったと後悔している。


時間は19時を過ぎていた。軽く食事を済ませ、布団に横になり買ってきた本を読む。

相変わらず独特の入りと言葉遣いだ。

高校3年間はこの本を大切に読んでいた気がする。300ページほどの一般的な小説だが、1ページ1ページ大切に読んでいたら、あっという間に入学から卒業まで過ぎていった。

いつもは一週間で読むほどの読書家なのだが、これは違った。

なにがそこまで魅力的だったのかはよくわからないが、今改めてこの本を読んでみると、やっぱりいい本だ。


1時間読み進め、心地よい眠気が僕を普段の生活に戻させる。

小説特にミステリーは、違った世界に連れてってくれるが、逆に現実に戻す力も持っている。

それが魅力でもあるのだが。


今日の月は三日月だった。

月の種類は三日月、半月、満月と種類は少ないが、1つ1つ、1日1日、形は変わっていく。

それを僕たちが知らないだけで。知ろうとしないだけで。

明日もまた夜がやってくる。そう、願いたい。

たまにこういったネガティブになるのが嫌だなと、自責の念に駆られながら、僕は目を閉じた。




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