SSWヲタクの観点から考える「さユり『花の塔』」と『リコリス・リコイル』


○はじめに

あなたは「酸欠少女さユり」というSSWをご存知だろうか。前方の代名詞部分を除いた名前についても同様に問いたい。

昨今で言えば「リコリス・リコイル」ED歌唱でお馴染みかもしれないが、RADWIMPS野田洋次郎氏提供曲「フラレガイガール」やMY FIRST STORYと共作した「レイメイ」なども代表的であり、これらをキッカケに彼女の存在を認識した方も多いかもしれない。

路上ライブでの、その小さな背丈全てを吐き出すようなパフォーマンスが話題になったことで注目され、「ミカヅキ」「それは小さな光のような」「平行線」などの楽曲リリースにも繋がった。

さて、そんな彼女の楽曲「花の塔」は先述した通りアニメ「リコリス・リコイル」のEDとして大変注目を集めている。これは、アニメーションとしての完成度が高いこともその要因のひとつであろうが、それに加えて楽曲としてのレベルの高さも大いに関係していると言えるだろう。

今回はとりわけこの楽曲のどういった部分が評価されているか、ないしは評価されるべきなのかを中心に考えていきたい。なお、あくまで一個人が著している文章のため、主観的感想や意図せずに誤った内容が記載されている可能性もあるため、その点ご了承頂きたく思う。

注:もう大丈夫だとは思いますが、リコリコネタバレ的要素有なのでご注意を。


○SSW、さユりについて

楽曲を考えていく上で、まずは「さユり」がどのような系統のアーティストであるかをまとめていこうと思う。第一に言えることは「気持ちの強さ」であろう。先述した通り、ライブでの圧巻のパフォーマンスや、全身から溢れるような歌声は詞のメッセージを真っ直ぐにブレることなく伝えられる。SSWである上で、こういった部分を武器にできるというのは極めて重要であり、確固たる軸を持っている証拠であるとも言える。

では、彼女の楽曲性についても考えていこう。「それは小さな光のような」「ミカヅキ」「来世で会おう」「アノニマス」「平行線」「月と花束」といった楽曲が代表的であるが、これらに 共通して言えることは「心の中の叫び」「強い衝動性」である。決して明るいとは言えない曲調に乗せられるそのようなメッセージは困難に直面する人々や内に秘めた気持ちを解放したい人々を中心に共感を集めている。

そういった楽曲が主(それらが主力であるという訳では無く、単に幅広い層に知られている意。中の人は「スーサイドさかな」「るーららるーらーるららるーらー」「ちよこれいと」などが好きなので挙げたかった...)である彼女にとって、今回取り上げる「花の塔」はある意味異端児なのである。

初めてこの曲を聴いた時、まず歌い出しまでの曲調に大変驚いた。明確に明るい曲調を帯びていたからである。とはいえ、さわり数秒で曲の全体を掴むことなど到底出来ないため、聴き進めたわけであるが、この結論が覆ることはなかった。

明るさ、と言うよりは優しさを感じさせるようなメロディは彼女の歌い方にも表れていたのである。従来の曲について言えばその強いメッセージ性を精一杯届けるために力強く、きつく歌っているものが多い。そこからは想像できないような柔らかな歌声が聴こえて来たのである。もちろん、できるできないで言えばできるのだろうと思っていたが、それを実際に「してくる」とはまさか想像も出来なかったのである。

だからこそ、メッセージ性(もちろんこちらも残しながら)よりも優しさと柔らかさ、そして絶妙に感じられる切なさと儚さが彼女の楽曲から先行して内に届いてくるというのは革新的であったのである。

それはアニメの主題歌だから、そういう風に作られてるんじゃないの。

そう思う人もいるかもしれない。確かにそういう節もあるだろう。しかしながら、彼女のほかの楽曲についても複数タイアップ(アニメについても例外ではない。)がある。加えて、「リコリス・リコイル」についても、ある種彼女の強みでもあるメッセージ性や強い歌声を全面に出した楽曲に仕上げることができるような作品であるとは思う(この点については、誰の心情をベースにして曲を作るかによって変わってくるとは思われるため後述。)が、実際そう作られてはいないのである。


○「花の塔」について

次に楽曲の編曲及び楽器について考えていく。編曲にイトヲカシ(「さいごまで」、実写「氷菓」主題歌の「アイオライト」等でお馴染み。)宮田'レフティ'リョウ氏が携わっているというのも、非常に良いエッセンスとなっているだろう。多くのシーンでエレキが活きた楽曲後世になっている印象の楽曲であるが、特筆すべき部分はイントロとサビ前であろう。

特にサビ前に関してはまさに作中の銃撃戦のような緊張感を、あるいは知らぬ事実を告げられたときに全身を走り抜ける電撃のような衝撃を与える役割を買って出てくれている。そういう側面については大サビ前の「君の手を握って(この間ボーカルなし→一気に登場)」の箇所も初見では予測できないタイミングで刺してきているため、作品の意外性を演出していると言える。

○「リコリコ・リコイル」と「花の塔」

さて、ここからはアニメ作中の話を織り交ぜながら歌詞の話にシフトしていこうと思う。

そもそもこの「花の塔」は誰のどのような心情を表す曲であるかという疑問を抱いた。アニメを見る前に感じた「絶妙な明瞭さと儚さ、切なさ」といった答えを知るためにタイアップ作品を鑑賞しようと決心した側面が強かった(元々少し興味はあった)のである。

作品の内容を世界観という部分を一旦置いておいて要約すると、責任を問われ組織から島流しを食らったたきなが千束と出会ったことで価値観が変わったり(変えられたり)、あちらこちらへと振り回される、といったところてあろうか。

そういう意味では曲の主人公が「その誰か」がいつ来るのか、何をしているのだろうかといった感覚を植え付けられてしまったということ、独りで居ることの寂寥は蜜の味さえ知ればもう元には戻ることができない、まさに「孤独を知らない街」に「帰ってくることができない」のだろう。

それに対してああそうか、と受け止めるのではなく、そのままないしはそれ以上の先へと連れて行って欲しいと思ってしまう自分がいることを認めて浸っている様子が見える。

さて、リコリコ最序盤の段階ではこの「花の塔」はたきな→千束によるある種のラブレターといってもいいようなカタチであると思っていた。実際、銃撃戦を繰り広げるような世界観の作品でもあるし、そういう意味では切なさや悲哀(死を意識させる)を帯びたメロディに納得がいくようだからである。

しかしながら、その感想は部分的に間違っていたと最終回を迎えてからは思う。この楽曲の主人公はたきなではなく、たきなを含む千束を取り巻く全ての登場人物であると。

リコリス・リコイルという作品を見る上で千束のキャラを無視することはまず出来ない上に、彼女の奔放で爛漫、それでいて悟ったような言葉を隙間に吐き出すキャラクター性は「花の塔」を考える上では作中の世界観や組織の設定以上に重要な項目であるように思える。
事実、彼女の存在によってたきなはもちろん、ミカや吉松、真島などは特にそもそもの在り方や価値観を大いに変えられている。

トラブルメーカーと言う言葉ではあまりにも淡白であるが、そういう類の意味合いを持ち合わせている存在だと思う。作中でそれだけの大いなる意味を持っているからこそ、最終的に彼女がいなくなるのか、否かは人々の注目を集めたのではないかと思う。

結果的に言えばハッピーエンドという結末を迎えた(一部にとってはまったくそうではないが......)ことが「花の塔」にとっても良い味付けになっているのではないだろうか。

さて、タイトルについてであるが、花を贈るシーンというのはお祝いや身を捧げる時、人を見送る時が主である。生か死かがハッキリとわかれているものの明確にどちらかがわからない状態である以上、このように推測話にもまさに「花が咲く」わけであり、深みを与えてくれている。

我々がそれを目にすることが出来るかは分からないが、これからも彼女らの道は続いていく以上、錦木千束はいつまでも、見たことない星まで連れていってくれるだろう。

○あとがき

P.S.
アニメ制作陣、キャスト陣、楽曲制作陣に圧倒的感謝を。

花の塔、たきな千束の絶妙なストーリーが刺さって抜けないヲタク作の拙い文章でした。気持ちが溢れて抑えきれなかったので本文作成に至りました。多くのシーンでの登場人物の心象表現というか、絶妙な感情の表し方が上手い作品だなと思いました。大学で映像における心象やテクストのことを学んだこともあるのですが、また1つ勉強になった気がします。これだからフィクションは面白い。
そしてSSW愛好家としてもまた素晴らしい楽曲に出会うことが出来て幸せな人生であると、そう思いました。まだまだ書き足りないことはありますが、語彙が足らずくどくなりそうなので今回はここまでとさせて頂きます。

お読みいただきありがとうございました。

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