カノエラナ 第85回煩夜伽大会 ライブレポート
〇まえがき
このレポートはとある一般ヲタクの怪文書紛いのライブレポートであり、内容は8/5開催のカノエラナ氏の第85回煩夜伽大会に参戦したことで得られた感想等をまとめたものになっています。
表現の都合上、断定的な表現などが用いられていることがありますが、あくまで個人の感想・主張であり、他者に対して強要するような意図はございませんのでご了承ください。
他の人の考え方や見解を受けいられないという方につきましては、読むことをおすすめしませんので、ブラウザバックをお願いします。
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以下本文
第85回煩夜伽大会───────
煩夜伽とは造語であり、冠詞の「煩」と「夜伽」の2つにわけて考えるべきワードだろう。「夜伽」は物語などの手法を用いて人が他者にサービスを施すことを表す。これに「煩」という字を付けることでどのようなニュアンスを付与しようと試みたのだろうか。
────────夏。
インドアの人間にとってこれほど嫌な季節は恐らく他にはないと断定して差し支え無いだろう(ただし全ての季節が同等に疎ましいとする意見は除く)。
差し込む日差し、平面を滴る汗、花火や海などの行楽に勤しむ客のミルフィーユ。それらは例外なく煩わしいものであり、一般的には忌み嫌われる対象である。
そのような、疎ましさを孕む季節の中で行われるナイトショーを、煩夜伽と称したのかもしれない。
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カラッとした爽やかな日差し───が照りつけるはずもなく、今日8/5も不愉快な大気が首都東京を包む。会場がある渋谷では、同日に大規模な盆踊りが開催されることもあり、人々は1割程増しているようにも伺える。
時を進め、Spotify O-nestは我々を快く迎えると共に宴の準備を整える。思っていた以上に箱詰めになる私たちもまた、外で賑やかに騒ぐ盆踊ラーと同じようなものであることを意識させる。きっとその伏線だったのだろう。
吊るされた提灯と会場BGMは嫌でも夏の記憶を呼び覚まし、各々がもつそれの具現化の立役者となる。
───────開演。
クラップに合わせて登場するメンバーと、本日の主役。否、今宵のこの煩夜伽の語り手はバンドメンバーを含めた4人であることをきちんと理解しておかねばならないだろう。
カノエ氏が身につけるその衣装は右鎖骨を座標A(0,0)とするとおよそB(-6,5)辺りの地点に楕円の穴が空いた形になっていた。
まるで宝石を埋め込むためにあけられた空間のようにも思われるが、それはそうとしてフェチズムの愛好家にはたまらない布の形なのだろう。いよいよ演出が施される
開幕の”おんど”は最高気温。
①夏の祭りのわっしょい歌
「物語というのは大体静かなあらすじからはじめてきっかけが生まれ、劇的に動くセオリーがあり────」と説く人も現れそうであるが、芸術においてそれは所詮既成概念である。
「芸術は爆発だ」がという言葉指し示すように、突然アボカドを投げつけられるくらいでなければ、人の意表は付けない。
そういう意味ではこの楽曲を頭に持ってくることは至極真っ当な行いであり、何人にも非難することは出来ない。
声出し可能な環境でのバンドライブは2019年12月4日以来の3年8ヶ月ぶりとなる。ファン層の入れ替わりもかなり大きくなっているこの現場において、3年8ヶ月という期間はかなり大きなニュアンスを持つだろう。
であるならば、ライブ会場でのノリ方や雰囲気もそれに応じて変化するのが自然であると言える。
まさに本曲はこの日にそれを最初に体現するシーンとなる曲なので、例えばタオルを回してもいいのだろうか、間奏中に声を出してもいいのだろうかといった葛藤が現れた結果なのだと思う。
過去と比較をすることは必ずしもいいとは言えないので、あまり間に受けては欲しくないが、これまでのバンドライブよりは幾分か大人しいテイストに仕上がったことは自明であるように感じられる。
色々と打ち込んでは見たが、結局のところこの曲が起爆剤となり、夜の花火を打ち上げる準備は十分に整えられたのだろう。
②カノエラナです。改
この曲もバンドサウンドになると一気に貫禄を発揮する。前回弾き語りツアーでもランダム枠で登場し、その身長の推移についても前回レポートで触れたが、バンドライブにおける登板数の多さにも注目出来る。やはりそれだけ「盛り上がる」。
声出しこそ可能になったが、「タオルを思いっきり回しても良いのか」について、ハッキリとした明示がされていないことから躊躇ってしまったのだが、実際のところしてもどうなのかハッキリとさせたい気持ちも少しある。
そういう意味ではセットリストの序盤の置き方にしては盛り上がり切れていない部分はあったのかもしれない。だが、それでもギアをあげるには十分すぎるだろう。勇者の腕の振りや歓声はこの時点で六合目を超えていたことがその答え合わせとなった。
③ヨトギバナシ
さて、一部の人はこのパートで大体何を言いたいかが分かるだろう。
個人的にはこの「ヨトギバナシ」が全体を通しても最大の山場であった。YouTubeで言う「視聴者が最も再生している箇所」というやつである。
ステージにおいてカノエ氏が舞い踊ったり、それらしい振り付けを披露して黄色い声援を浴びていたが、今回のようにしっかりとした小道具(もはや大道具)を用いるステージは過去に(それほど)なかったかもしれない。
和傘を掲げて広げ、また閉じるその様を見て狂乱にも聞こえるような歓声が上がる。
まるでこの世のものとは思えない、例えば竜宮城で浦島をもてなす魚人たちの振る舞いのような世界観に塗り替える。
実を言うと、私個人としては先月のとある別のライブにおいても「傘」に刺された経験があったため、危うく心的外傷後ストレス障害を発症するところであった。
本来のライブレポートであれば、ここでその話を挟み込み、読者を混乱させるのだが、今回は大真面目に書くことを宣言しているため、割愛させて頂く。・我儘なまま プラスチック・アンブレラ 項を参照。
さて、楽曲の話に戻ろう。
音楽ライブというよりはむしろ数世紀前の宴にも思えるような唄と舞の世界へ誘うようなステージが行われる。その瞬間何が起こったか分からず、頭を抱えてしまったが、ただ一点、とにかくやや右手の前方に目を向け続けた。
④ひとりかく恋慕
ヨトギバナシのステージ展開の感動も覚めやらぬまま、間髪入れずにひとりかく恋慕。この曲もかなり久々の披露では無いだろうか。ましてやバンドセットとなると尚更である。
正直に申すと、ヨトギバナシの衝撃にひとりかく恋慕の衝撃がのしかかっていた為、この辺りのパフォーマンスに記憶障害を抱えてしまっていた。詳細を書き記しきれないのが心苦しい。
しかしながら、最後の最後に魅せた客先奥側への鋭い視線は、しっかりと目に焼き付けた。
⑤グラトニック・ラヴ
ある地点に向けて全力で走り出した時、生き物はそう簡単にその足を止めることは出来ない。高音で熱した鉄はすぐには冷えない。
そういった自然の摂理、ある種の常識を型どって背中に押し付けるようにイントロを奏でる。
クラップを要求し、リズムを束ねる中で演奏されるベースは大変に滑らかでぬめぬめとしている。だが、それが良い。
人によっては、なかなか間奏のクラップが難しいと感じる人もいるかもしれないが、慣れればそのようなこともないので安心して頂きたい。
個人的には歌唱している箇所のクラップはあまり合わないと感じていて、しないようにしているのだが、思いのほかする人が多い。このスタイルもいずれ定番化するのだろうか。
今宵も祭り騒ぎの夜の街を歩くことになるので、世界に捕食者は多く存在しているだろうし、理にかなったセトリ入りだと思いながら耳を落ち着かせた。
⑥キンギョバチ
バンドメンバーのサウンドだけでなく、インストの音源も共に用いることでより厚みを持たせたキンギョバチ。ボブ氏は本番前にキンギョを捕食し、すっかり全身にその証拠をさらけだしていたようだが、グラトニック→キンギョバチの流れはつまりそういうことなのだろうか。
この曲は音数の多い部分と少ない部分がハッキリとしているので、静まり返ったと思ったら思いっきり鈍器で殴り掛かるような音が飛んできて「バンド」とぶつかり合っているような気持ちにさせてくれる。
私自身、ライブは演者との戦いの場であると思っていて、常にその気を抜かないように努めている。演者には全力で倒しに来て頂きたいし、都度そこで死んでもいい覚悟を持って臨みたい次第である。
⑦ハニーホリック
MCを軽く挟み、指ハートを掲げてくれだったり、バンドで初めてやる曲だったりと、かなりいいヒントをくれていたのだが、完全に頭から抜け落ちていたこの曲。言うなれば大穴である。
男女別でそれぞれ1番2番で掲げてくれという要求は、恋愛系作品のストーリーにおける衝突や二分を経て最終的にひとつになる流動性を感じさせて、今自分自身もリア充なのではないかと錯覚させる。否、ある種リア充ではあるとは思うが、リア充のでは無いのだろう。
心躍るようなメロディは夏の祭りの最中の心情にも近しいのかもしれない。旋律は冷静さと動揺を兼ね備えたようで、例えどれだけ私の顔面偏差値が低くとも、この空間で自分が一番「カワイイ!」のだと誇示するように滑らかな指ハートを披露してみせる。誇示じゃなくて誰が自己暗示(事故暗示)やねん。
これもある種の「戦い」なのである。
⑧真夏に片想い?
何気に聴く機会がじわじわ増えたようにも感じ取られる一曲。やはりタイトルに「夏」を閉じ込めている以上、この時期の登板に前向きになりやすいのだろう。
今回の煩夜伽大会の開催に際して、7/19の長崎や7/21の大阪でのライブのセットリストとの兼ね合いは大いにあると考えていた。
煩夜伽で夏を全開にするのなら、大阪でのツーマンライブはそのテイストにはならない予想だったのだが、裏腹に夏のスイーツパラダイスのようなセットリストであった。
(タイムカプセル)、君が僕のことを一生忘れられないようになどはもちろん、サイゴノオネガイを披露し大量の難民を発生させたことが記憶に新しい(4日後のハグロックのリハでワンフレーズだけやったらしいが大きな解消には至っていないだろう)。
そのようなセットリストの用意があったことから、一体煩夜伽大会ではどうしてくるのか、どんな布陣で我々の生命を脅かしてくるのかと震えていたが、案外ストレートな曲目(なお、ヨトギ等の鬼演出有)であった。
真夏に片想い?もサビの振り付けがある曲であるため、これを大勢で出来ることへの達成感や満足感は計り知れなかった。
地方公演などでは、単純に人が少なかったり、認知が足りずにやっている人が少なかったりして盛り上がりに欠ける部分もないとは言えないのだが、やはり東京はこの部分において最強を誇っていると改めて痛感する。
私事ではありますが、この夏高校ぶりに水着で海に入り(カナヅチ)、夏の陽射しを肌に染み込ませた。
旅行好きの為、一概にインドア派とは言えないが、ずっと海は見るのが好きなだけだと思っていた。だが、このように体を動かし肌を痛めつけるような夏も案外悪くないんじゃない?と思ってしまった。
⑨たのしいバストの数え歌
長年音楽を聴いていると、楽器演奏経験がほとんどなくても感覚的に音楽について理解出来る部分がある。
例えばアコギだと演奏前のアルペジオやコードを聴くと、どういうコードが使われているだとか、細かな学術的なことは分からずとも、どの曲が来るかはだいたい絞り込むことが出来る。
たのバスの入りも、MCを交えながらポロポロと弦を弾かせていたが、始めるや否や
これたのバスじゃね〜〜〜?
と遮る弁を血流が押しのけ逆走し、飛び跳ねながら駆け抜けていくような感覚になる。
私自身がプロイントロドナーであることもその追い風になっているとは思うが、おそらく勇者の皆様も同じような感覚に陥っていたことだろう。
たのバスもなんやかんや藤田恵名氏が水着でMVに出演していたり、渚のエンジェルだったりと準夏ソングの様相を呈しているわけであるが、更にバンドサウンドとの相性はバッチリ。特にギターは痺れるメロディをPDF化して添付してくれているし、送り主はパスワード設定を忘れて送信してくれる。
全力で腕を振り、体の暑さを増大させるのもまた趣であったが、願わくばもっと強くワンと鳴きたいとも思う。
⑩本能的恋愛のすゝめ
ここで大いに喉を枯らした方も多いのではないだろうか。宴の様子を察知して現れたのか、はたまたカノエ氏のアブラカタブラな力によって召喚されたのかは不明だが、多くのキツネも来場された。
リミックスベースの披露というのもまた珍しく、なかなか見ることが出来ないので貴重な演出を体感することが出来たと言えるだろう。
個人的にはアコースティックのイントロが緊張感を与えてくれるので好みなのではあるが、こちらも新鮮。元々旋律が不安心を煽るようなテイストではあるので、妖艶さというか、妖の類を感じ取ることができる一曲だっただろう。
⑪天高く響け 青嵐の様に
こちらも(タイムカプセル)と同様音源も交えて演奏された一曲。イメージは和がかなり強い楽曲だが、最早バンドの定番曲にもなりつつある。
確かにサビへの滝登り的な盛り上がり方はフロアにも届きやすいし、カノエ氏のイメージにも合致した楽曲のだろう。
サビにて拳を突き上げる様子が本当に曲の勢いと合致していて、さぞかし後ろから見る景色は美しいだろうと思った。
前で見る景色の素晴らしさはさながら、後ろから見る景色が持つ意味についても、噛み締めたいと思う。
整理番号は、ある程度突き詰めていけば運頼みになってしまう。その中で、良い番号を取れなかったことを憂うのではなく、その瞬間そこでしか見れない景色を見るための啓示であると考えれば少しはライブへの楽しみは増えるのではないだろうか。
今回良い番号を取れずに苦虫を噛み潰した人もいるかもしれない。この日の景色もしっかりと目に焼き付けられただろうか?
次の現場ではいい場所で見れるように祈ることで、この楽曲を締めようと思う。
彼女の声が、思いが、天高く響き
それはそれは青嵐のように我々がいる空間を包み込んで離さなかったことだろう。
⑫セミ
カノエ氏自身がコロナに罹患し、その間の心情や経験を訥々と話しながらギターにも小さな声で話をさせる。たのバス同様、曲に入る前のこの段階で察することができる人も多いだろう。
私はこの4年間において、コロナの罹患経験が無い。そのためその肉体的苦痛については推し量ることが難しい。
しかしながら、コロナに罹患することでかけてしまった負担やあけてしまった穴への申し訳ない気持ちなどは、近しい経験から類推することが出来る。
あの「セミ」のMCで話をするくらいである。相当に思うところがあったのだろうと考えられるし、それだけ私たちにもそれを伝えたいのだと選んで、言葉を紡いだのだろう。
うだるような暑さは鬱蒼とした気持ちにも繋がり、暗いネガティブさを彷彿とさせる。
盛者必衰、弱肉強食の生命の話をしよう。
僅か1週間という期間でその完全体としての生涯を終えるセミはその直前まで喉を枯らして鳴き続ける。
死した後、格下の生命、この度はアリに身を引き取られて解体を受ける。
例えそれを少し蹴り飛ばしたとしても、所詮時間の問題であり、少し経てばまた同じように離別は免れない。
例えば夜にセンチメンタルな気持ちに陥った時、仮に1人でいたならば簡単にそこから抜け出すことは出来ない。
一時的に抜け出せたとしても、結局のところまたぶり返し、精神を蝕まれるのである。
これはメンタルの話についてだけでなく、実際の病についても言えることだろう。
病に犯される、癌細胞が蝕む、等の言葉がさし表すように、生命to生命以外の手段においても人は喰われうるのである。
そんな経験を、メロディに乗せるように歌いあげた。
それでも彼女はまだ死ぬことは無い。
まだ見ぬ明日を生きていくために。
⑬最後の晩餐
セミを経て、言わば静かに聞きこむ空間が完成していた。それ即ち
次何くる?
である。
ここに曲を並べるのはかなり繊細な神経が必要であると推測出来るが、
最後の晩餐──────
なるほど、これは面白い。
バンドでの最後の晩餐は「最後」間がより増しており、非常に趣深い。
冒頭のリードギターの旋律───
それだけでも忙しなく生きる日常や世界への諦観、絶妙な無気力感などを脳内に過ぎらせることが出来る。サビに向かうにつれてボルテージが上がる様も、痴情に対する熱し方冷め方のようでリアリティに拍車をかける。
最後のライブはまだまだこないと願っている次第だが、今日もこの上ないくらいに味わって頂いた一曲だった。
⑭花束の幸福論
そろそろライブも終盤かと思い始める頃。
流るるは花束と幸福論──────
この曲を考える上で、過去のバンドライブについて振り返る必要がある。
まず前回の東名阪バンドツアー。(大阪と東京では)1曲目が花束の幸福論であった。そしてその前のバンド公演である2019年12月4日(厳密には暴走金魚が挟まるが、私が参戦出来ていないため削除。)まで遡る。
この公演が事実上、コロナ前の最後のバンドライブになっており、この公演のアンコールを除く最後の曲が花束と幸福論であった。
勇者への感謝や愛といったキーワードを述べながら公演を締めくくろうとしたあの日を思い出すと、胸がいっぱいになる。
こちらの気持ちも溢れて仕方が無かったあの日と同じような位置にこの曲が持ってこられたのかと、思わず目を見開いた。
既にライブを終えた現時点から考えれば、本編にもまだもう一曲残っているということに気づくことが出来るが、ライブ中は当然そのような事はわからない。あの日と同じように涙を流し、お気持ちジェットコースターになるのだと確信したが、それとは裏腹にそうはならなかった。
心が次の曲の存在を察知したのだろうか、神からの啓示だろうか。否、そうでは無いだろう。あの日届けたかったメッセージと今届けたいメッセージは全く異なるものであり、我々が受け取るメッセージも同様に異なっている。
そうである以上、まだこの先がある可能性な賭けてみたかった。
ギターソロの箇所、あの日の弓木氏の旋律はとてもエモーショナルで感傷を誘う音だった。対してエンドウ氏のそれは極めて情熱的であり、まだまだ心にガソリンを撒き散らして引火させるような勢いのものであった。
それだけでも十分な答えだった。
⑮思春期中二話症候群
いよいよ本編最後の曲。しんみりとした雰囲気では終わらせないと強く、それでいて優しく叩かれるドラムと深みで響き渡るベース、そして横から支えるようなギター。
最後の最後まで我々の熱量を冷まさないように、腕を前方に向けるようそれとなく振る舞う。
勇者に関しても拳をあげる者、真っ直ぐパーで伸ばすもの、人差し指を突き出すものなど千差万別であるが、この不揃い感もまた個性が出ていて面白い。きちんとひとつに揃っているほうが綺麗で、個人的には好ましく感じられるが、この界隈のイメージで考えれば揃ってなくていいのかもしれない。
比較的コールアンドレスポンスを含む楽曲も多く登用されていたのではないだろうか。
正直気のせいなのかもしれないが、この曲含め「声を出す」ことが出来るタイミングがひとつでも多くあることで、その幸せを噛み締めることが出来たのでは無いかと思う。
込められていなかったとしても、感じられたものを次に繋げれば成長出来るかもしれない。
En.
①1/2
長い長いアンコールが続く。
やはり動員数の暴力が作用し、女性の声が多く響くのを聞くことが出来て嬉しい。なかなか耳にすることができない規模感かもしれないが、これからはまた定期的に聞くことが出来ると思うと日常に彩りが添えられることだろう。
まさか本公演においてカバー曲を披露するなど誰も予想はできなかっただろう。
夏を泳ぐために波として連れてきた曲たちの中に混ぜる「1/2」。
これまでの「煩」の流れを一掃するような軽やかで爽やかな夏を演出する。ある意味、令和の夏ではなく昭和のまだ少し涼しさも感じ取られるような夏をイメージしたのかもしれない。
②恋する地縛霊
本当に最後の楽曲。これが終わったら今宵の魔法も解けてしまうのかと思うと憂鬱な気もするが、始まりを持つ万物は同様に終わりも抱擁する。終わらないものの方がむしろ不健全であり、非現実的なのだ。
その魔法を解くために、フロアの全員が心から声を出さねばならない。ひとりひとりが誰よりも声を出すという気概で挑み、夜は果てた。
わっしょいの1フレーズで、繋がる心があるのだ。
○あとがき
特筆すべきだったのはやはりヨトギバナシとハニーホリックの2点だろう。前者はシンガーソングライターとしてのライブをまた一回り更新する上で大きく貢献し、後者はバンドでの初披露曲として大きな衝撃を与えた。
加えて、当日の告知事項として挙げられた「秋アニメ2本のタイアップ」のインパクトは計り知れない。そもそも、1人のアーティストが同クールの2つの作品をタイアップするということがあるのか、と己の概念を壊されたこともあり、何を言っているのかよく分からなかった。10月クールのアニメと聞き、「ミリオンライブ楽曲提供!?」かと一瞬思い倒れそうになったが、そうではなくて、むしろ安心した。これは布教では無い。
キングレコードの力か、ヨトギバナシの反響かと色々考えは及ぶが、何はともあれ躍進にまたひとつ繋がると思うと楽しみが増える次第である。
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ライブ前後に関して言うと、O-nestの待機位置について近辺での滞在を推奨し、会場前での混雑緩和に貢献出来たのではないかと考えている。が、起こったこたは良いことばかりではなく、課題も多く見つかったため、それらにしっかりとアプローチしたい次第である。
ここ近辺のライブでは、数年ぶりに邂逅する勇者の方々も多くいたが、今回でもその類において数人と対面することが出来た。
人との繋がりは定期的に実現しなければ自然と消えてしまうことが多い。
3-4年の月日というのはそうなるには十分な時間であるにもかかわらず、互いに存在を認識し、また同じように(多少の変容もあるかもしれないが)言葉を交わせることに喜びの意を評したい。
いつものことですが、今回も多くの人とお話することが出来ました。ありがとうございました。
喋りに時間をあまり取れなかった方もいたのが少々心苦しいですが、また必ずお会いして、達成するための布石と信じようと思います。
私事ではありますが、無職への応援のメッセージや愛のあるイジりも大変有難かったです。なかなか大変ですが、今後も変わらずに全力で推し事を続けて参ります。
また次の現場でお会いしましょう。
ご愛読ありがとうございました。
終
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