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森会長の「女性蔑視」発言について

今、巷を騒がせているオリンピック委員会の森(元)会長の女性を蔑視したと言われる発言について、感じたことを世の女性を敵に回す覚悟で書きたいと思う。

私がその場に居合わせた訳ではないので詳細は不明だが、ニュース等を見る限りでは差別的な発言をされたのだと言う。そして世界中が問題にしているとのこと。

オリンピック委員会の長としての立場の発言としては問題有りだとは思うが発言はそれほど酷いものだったのだろうか?

私は差別はダメだが、”男女の特性・差異”はあると感じている。
例えば、男性は論理的に俯瞰的に物事に対応し、女性は情感的に現実的に共感をしながら物事に対応している傾向を私は感じる。

全ての男女がそうだとは思わないし、あくまでも私個人の印象である。
良く、女ってそういうことあるよね~、男ってそういうとこあるよね~というアレである。

今の世の中(日本・世界を問わず)はその手の発言をすることがタブーになりつつあるのでは?と私は危機感を感じている。

誤解をされたくはないが私は男女平等に賛成の立場であり、女性の社会進出がしにくい構造を変えてく必要があると感じている。

しかし昨今の「差別」と「特性」を混同した、”女性蔑視発言のコトバ狩り”   には少々ウンザリしている。

私の中では
「差別」は女性はこれをやっちゃいけない、こうしていろ、こうであるべきだといった強要に繋がるもので、
「特性」は思考・行動の傾向であって、それは別に良い悪いではなく先述した、”こういうとこあるよね~” 的な話である。それは男女問わずである。

男女はその特性というか傾向にお互いが惹かれてきたんじゃないか、と感じている。それを差別と捉える人はいるとは思う。特性はあくまでも個人の感覚でもあるのだから。
それにその特性に当てはまらない人に対して、差別に発展していくという考えもあるだろう。

でもそれは世間に寛容さがあれば問題化しないのではないかと思っている。
むしろ問題化することで対立軸を煽っているのではないかとも感じている。

過去に男女平等を訴えてきた女性が涙を流している場面を何度も見てきたが、平等を訴えるならあれは禁句である。意図的ではないにしても結果的に自ら女性を武器にしてしまっている。
涙は武力と同等に力を持っていると私は思っている。

差別の構造があるなら全力で解決する必要があるが、それ以外は寛容さがあれば問題化されないと信じている。

こんなことを書いていると、世の中とのギャップに改めて自分は古い人間だなあと痛感してしまう。






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