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【世界史】モンゴル帝国

13世紀はじめ、モンゴル高原の諸部族をまとめたテムジンがハンの称号を得てチンギス=ハンとなりモンゴル帝国が誕生した。モンゴル帝国は強大な軍事力で周辺の国々をつぎつぎと打ち倒し、またたくまにユーラシア大陸のほぼ全域を支配した。その領土は人類史上で大英帝国につぐ大きさとされているが、陸続きの領土でいえばモンゴル帝国が圧倒的にでかい。

モンゴル帝国の歴史

モンゴル帝国は初代皇帝のチンギス=ハンとその子どもたちが作り上げていった。モンゴル帝国の歴史はチンギス一族の歴史といってもいい。

初代皇帝チンギスの時代

12世紀のモンゴルはいくつかの部族が抗争を繰り返していたが、リーダーシップを発揮したテムジンがそれらをまとめ、部族長が集まる最高議決機関であるクリルタイで君主である「ハン」の称号を得てチンギス=ハンと名乗り、モンゴル帝国が成立した。

チンギスはモンゴル高原をまとめたあと、南西にあったモンゴル系のナイマン、さらに西の中央アジアにあったイラン系のホラズム、南にあったタングート人の西夏と続けて滅ぼし、領土を大きく拡大した。

2007年の映画『モンゴル』はロシア人監督で浅野忠信がチンギス=ハンを演じたことで話題になった。観てないけど。

チンギス=ハンは源義経であるという同一人物説は有名だが、現在では完全に否定されている。この説は江戸時代からあったが、大正時代に出版された小谷部全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』で大きなブームとなった。高木彬光『成吉思汗の秘密』はこの説をもとにした歴史ミステリー小説である。

第2代皇帝オゴタイの時代

チンギスの死後に皇帝となった三男のオゴタイは中国・華北のを滅ぼし、長兄ジュチの息子、バトゥはヨーロッパ遠征を行い、キエフ公国を壊滅させ、ポーランドやハンガリーを侵攻、1241年のワールシュタットの戦いではポーランド王国、神聖ローマ帝国、テンプル騎士団、ドイツ騎士団、聖ヨハネ騎士団などのヨーロッパ連合軍が束になってかかったが、無残に殺されただけだった。ヨーロッパにとってはまさに悪夢のような出来事となる。

第3代皇帝グユクの時代

オゴタイの死後、息子のグユクが帝位を継いだが、わずか2年で死んでしまう。

第4代皇帝モンケの時代

皇帝となったモンケは弟のフビライを南宋に、フラグを西アジアに派遣した。フラグは1258年にバグダードを占領し、約500年続いてきたアッバース朝を滅亡させた。

第5代皇帝フビライの時代

モンケの死後、皇帝となったフビライは1271年、モンゴルと中国にまたがる領土を中国風の王朝名としてとし、翌年には中都を大都と改めた(現在の北京)。そして1276年には南宋を滅ぼして中国を統一した。

さらに陳朝ベトナム、チャンパー、ビルマなど南方に進出して多くを服属させ、朝鮮の高麗も属国とした。しかし日本遠征(元寇)には失敗した。

14世紀になるとモンゴル帝国は安定期を迎えた。大ハン国(元)を宗主として、フラグの建国したイル=ハン国バトゥの建国したキプチャク=ハン国チャガタイを祖とするチャガタイ=ハン国の3つのハン国(ウルス)によって構成されることとなった。この安定期をタタールの平和という。

14世紀の半ばの1351年に白蓮教徒の反乱からはじまった紅巾の乱が拡大し、反乱の指導者から現れた朱元璋が1368年にを建国、軍を北上させると元は大都を放棄して元は滅亡し、モンゴル高原に後退した。

元が滅亡した14世紀後半には、チャガタイ=ハン国やイル=ハン国も国家的統合を弱め、モンゴル帝国は瓦解していった。

現在のモンゴルは外モンゴルと内モンゴルに分断され、前者はモンゴル人民共和国(現在はモンゴル国)として独立したものの、後者は内モンゴル自治区として中国の自治区となっている。しかしモンゴル人の中には、いまもチンギス=ハンとモンゴル帝国の歴史は民族の栄光として意識されている。

モンゴル帝国の影響

交易路の整備

モンゴル帝国がユーラシア大陸のほとんどを支配したことで、それまで遊牧民族の間で繰り返されてきた抗争が終わり、東西を結ぶ交易路の安全が確保された。オゴタイの時代には駅伝制(ジャムチ)というシステムが確立し、支配地域の主要な交易ルートに作られた駅を拠点とし、人も情報も自由に往来できるようになった。

モンゴル帝国が滅びたあともこの交易路は存続し、モスクワ大公国、オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国、明の繁栄へと継承された。

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