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可処分時間の奪い合い

可処分時間の奪い合い、という言葉がある。

可処分時間とは、自分の裁量で自由に使える時間のこと。会社員なら、平日は終業から就寝までが可処分時間、という人がほとんどだろう。小さなお子さんのいるママは、子供が寝ている隙しか可処分時間がなかったりもする。

仮に1日3時間ほど可処分時間があったとして、その3時間を何に費やすかはそれぞれ。家族だんらんや勉強に費やす人もいれば、コンテンツに費やす人もいる。

さて、現代はとんでもない量のコンテンツが溢れかえっている。

テレビ、Youtube、ラジオ、漫画、雑誌、小説、webメディア、映画、音楽、ネトフリ……。

見たいもの、読みたいもの、聴きたいものが多すぎて、限られた可処分時間をどのコンテンツに費やすかが悩ましい。

あらゆるコンテンツが人間の可処分時間を奪い合っているのだ。

……と他人事のように書いたけど、私もwebに文章を書いたり、本を出版したりしている。

つまりコンテンツを供給している。このnoteだってコンテンツのひとつだ。

今この記事を読んでくださっているあなたは、貴重な可処分時間を私のコンテンツに費やしていることになる。私にとっては光栄で嬉しいことだ(ありがとうございます)。

「自分のnoteがあまり読まれない」という嘆きをよく目にする。

その気持ちはよくわかる。書いたからには少しでも多く読まれたいし、読まれないと悲しくなってしまう。

けれど、世の中にはこんなにもたくさんの素晴らしいコンテンツが溢れていて、人々の可処分時間を奪い合っている。

自分のnoteのライバルは他人のnote……だけではない。『天気の子』も『凪のお暇』も、村上春樹やドストエフスキーの小説だって、可処分時間を奪い合うライバルだ。

長時間労働やワンオペ育児により人々の可処分時間は減少し、反比例するようにコンテンツ量は増え続けている。

このコンテンツ過剰供給時代において、私のnoteが読まれないのは当たり前、むしろ読まれることのほうが異常事態なんじゃないか。

私のnoteは1記事の読了に3分ほどかかる。読まなければそのぶん3分ほど「空き」ができるわけで、その空いた時間にほかのコンテンツを摂取することも可能だ。

なのに、1日のうちの3分を、私のnoteに使ってくれた人が存在する。

それってすごいことだ。感謝を通り越して、恐縮や申し訳なさを感じる。い、いいんですか……!?

その気持ちを忘れてはいけないな、と思った。




あと3分なにか読みたい気分の方はこちらをどうぞ


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