見出し画像

新しい人間関係に後ろめたさを感じること

Twitterをはじめて約7ヶ月。

正確には別のアカウントを8年前から持っているのだけど、吉玉アカウントを作って頻繁に投稿するようになったのはまだ7ヶ月だ。

ありがたいことに、たくさんの人とつながることができた。会ったことがないのに友だちのように感じている人もいる。

Twitterで出会った人から「お会いしましょう」と言われると、とても嬉しい。

スケジュール管理と体調管理が下手すぎてなかなか実現しないのだけど、会いたい人がたくさんいる。

だけど、「この人に会ってみたいな」とワクワクすることに、少し後ろめたさも感じる。

私は新しい出会いを大切にするあまり、今までのつながりをないがしろにしていないだろうか?

そう思うのだ。


私はハマりやすい。環境が変わって付き合う人たちが変わるたび、そこの人たちが大好きになってしまう。

たとえば、地元を離れて専門学校に進学したとき。

芸術系の専門学校(私は文芸専攻)だったので、そこで出会う友達はみんな芸術や文学への造詣が深く、知識も語彙も豊富だった。面白い小説をたくさん読んでいて、センスのいい音楽や映画もたくさん知っていた。

当時は私もめちゃくちゃ本を読んでいたので(今はそうでもない)、小説について語り合える友人たちと過ごすのは楽しかった。

だけど、帰省して久しぶりに地元の友達に会うと、本の話ができない。

ふだん、本の話ができる友達に囲まれているため、ついつい「阿部和重の最新作がね……」とか話しはじめてしまい、「阿部和重って誰?」とポカンとされる。

そういうとき、地元の友人に物足りなさを感じている自分に気づき、無性に腹が立つ。

今まで大好きだった友達に対して物足りないとか、何様だよ! 東京に、芸術系の学校に染まりやがって!

結局、「地元の友達も、専門学校の友達も、それぞれ楽しいな」という心境に落ち着くまで2年くらいかかった。

そういう自分の薄情さ、飽きっぽさ、影響されやすさを知っているからこそ、新しい出会いには注意深くなる。

山小屋にいれば、山小屋の人間関係が楽しい。だけど、「私はこの楽しさにかまけて、下界のつながりを忘れていないだろうな?」と自分に問いかけ続けないと不安になる。

今もそうだ。

気づけば私を「吉玉さん」と呼ぶ人からのお誘いが増え、嬉しい限りなのだけど、ちょっと怖くなる。

新しい人間関係の構築が怖いのではない。それによって、今ある人間関係を手放してしまうかもしれない自分が怖いのだ。

我ながら、不器用だと思う。

多くの人は、今ある人間関係を大切にしつつ、新しい人間関係もちゃんと構築していくのだろう。

もしくは、「人間関係って流動的なものだから、今あるつながりだけでいいや」と割り切るのだろう。

それはわかっているし、私もたぶん、表面的にはうまくやれていると思う。

だけど、心の中にはいつだって葛藤があるのだ。


サポートしていただけるとめちゃくちゃ嬉しいです。いただいたお金は生活費の口座に入れます(夢のないこと言ってすみません)。家計に余裕があるときは困ってる人にまわします。サポートじゃなくても、フォローやシェアもめちゃくちゃ嬉しいです。