「がん=罰」説が誰のことも救わない理由

先日、noteでこの記事を読んだ。写真家の幡野広志さんが書いたものだ。

幡野さんは狩猟者だ。そして、現在はがんを患っている。

幡野さんはがんになってから何度か、「自業自得」という言葉を投げつけられたそうだ。

僕は狩猟をしていたので動物を殺したことや、肉を食べていたことが“自業自得”でガンになったという理屈だ。
つい先日もヴィーガン(肉も魚も卵も牛乳も動物性のものは全てNG)の男性から「自業自得 因果応報 身から出た錆 獣食った報い」と言われた。
結局そのヴィーガン男子はこんがりとネット炎上してしまった。


私も、幡野さんとヴィーガン男子、二人に意見を述べる第三者、これらの人々の言葉のやり取りをTwitterで見ていた。そして、考えた。

考えることが多すぎて、まとめるのに時間がかかってしまった。

拙いけれど私なりに考えを文章化したので、ぜひ読んでください。

◇◇◇

件のヴィーガン男子(仮にAさんとします)は幡野さんに「自業自得 因果応報 身から出た錆 獣食った報い」と言った。

つまり、Aさんの論は下記のようになる。

獣食った:報い
=肉食:がん
=罪:罰

つまり、「肉食=罪」説と「がん=罰」説を同時に唱えている。

これに対して、多くの人が「肉食=罪」説について議論していた。

でも、Aさんの論がやばい理由はむしろ「がん=罰」説にあると思う。

「がん=罰」説は当然、その言葉を投げつけられた幡野さんや、他のがん患者の方を傷つける。

だけど、それだけじゃない。現在がんになっていない人にとっても、その言葉は呪いになりうる。


私の例でシュミレーションしてみよう。私は現在、がんを発症していない。だけど、今後がんを発症する可能性はある(誰にだってある)。

もしも自分ががんになったとき、「がん=罰」説を思い出したらどうなるだろう。

罰を与えられるということは、それに値するだけの罪を犯したということだ。「じゃあ、私の罪ってなんだろう?」と、思考は当然そこに行き着く。

「肉を食べていたからかな」
「怠惰な生活してきたからかな」
「あのとき、お母さんに迷惑かけたからかな」
「あのとき、夫にひどいこと言ったからかな」

私はきっと、あらゆる記憶をたぐり寄せて自分の罪を探すだろう。

想像してみてほしい。

過去に遡って「罪を探す」ことは、とても苦しい。健康なときでも苦しい。自責の念に押しつぶされてしまう。

それが、病を患っているときだったら?

痛みや闘病だけでも苦しいのに、その最中に「罪を探してしまう」としたら?

それは間違いなく、とてもとても苦しいことだ。そんなこと、絶対にしたくない。しなくていいし、する必然性もない。


だからやっぱり私は、「がん=罰」説をきっちり否定しておきたい。

その説は、がんの人とがんになりうる人にとって、苦しみしか生まないからだ。

お気づきだろうか?

がんの人とがんになりうる人とはつまり、すべての人間を意味する。

ということは、ヴィーガン男子・Aさんも含まれるのだ。

私は、彼に対してとても不思議に思っていることがある。

「がん=罰」説って、あなたにとって何かメリットあるんですか?

あなたががんになったとき、あなたは、何を罪とするんですか?

◇◇◇

ヴィーガンのAさんにとっては「肉食=罪」である。当然「菜食≠罪」だ。

では、もしもAさん自身ががんになったら?

考えられる思考パターンは以下のどちらかじゃないだろうか。

①「がん=罰」説を取り下げる
②「がん=罰」説を持ち続ける

①はつまり、「私には何の罪もないのにがんになってしまった! がんは罰ではなかったのだ!」という考え方だ。

②はつまり、「私はヴィーガンだから肉食の罪は犯していない。けど、○○という他の罪を犯したからがんになったのだ!」という考え方だ。

私は「がん=罰」説に反対なので、①であってほしい(むろん「Aさんにがんになってほしい」と言っているわけではない。仮定の話をしている)


実は、Aさんに対して

「ひどいこと言って幡野さんを傷つけたんだから、この人こそがんになるよ!」

という意見をTwitterで目にした。

私は、その意見には納得しかねる。

Aさんがひどい言葉で幡野さんや他のがん患者を傷つけたのは言うまでもないことだが、「だからがんになる」という言葉は、「がん=罰」説に基づいている。

いや、第三者がすべきなのは「がん=罰」説を撲滅することなのでは?

◇◇◇

普通に考えて、罰じゃないでしょう。

がんだけじゃなく。病気も、災害も、事件や事故に巻き込まれることも、あらゆる辛苦は罰じゃないでしょう。

罰だとしたら、それを与えているのは誰ですか? 神ですか?

神って、そんなに器小さいんですか?

◇◇◇

今、なんらかの苦しみの中にいて「自分に非があったからこうなったんだ。自分のせいなんだ」と思っている人がこれを読んでいたら、伝えたい。

あなたのせいってこと、ないと思いますよ。

この世界って、原因と結果がきっちり紐づいてることばかりじゃなくて、それを言い表すために「理不尽」なんて言葉があるくらいで。原因がわからないというよりは「そもそも原因なんてないんじゃね?」ってこともたくさんあって。

自分を責める人って優しい人が多いから、たぶん私はあなたのこと好きですけど、でも、自分を責めるのってしんどいじゃないですか。

だからどうか、自分を責めないでください。



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吉玉サキ

ライター・エッセイスト/著書『山小屋ガールの癒されない日々(平凡社)』http://urx2.nu/Vmkr webメディア・雑誌で執筆中/有料記事は知人に読まれたくないだけで有益な情報とかじゃないです/お仕事のご相談はsaki.yoshidama@gmail.com

コメント4件

はじめまして。 こういう言葉があります。 「イエス・キリスト以降、『神罰』とは、己が己に対して与える罰のことである」 自分を責めてしまうから……ということもあり得るのではないかと思いました。 また参りますね。^_^
誠智さん

はじめまして。コメントありがとうございます。

キリスト教は「罪」が前提にありますもんね。神罰は他罰ではなく自罰であるという考え方ですよね。

周りに敬虔なクリスチャンの女性がいます。彼女は唯一の家族である娘を自殺で亡くしました。彼女を支えているのがキリスト教であり、誠智さんが仰った考え方です。

ですが、その考え方を「救い」にできる人は少ないと思います。あらゆる不幸は、自罰であれ他罰であれ神罰であれ「辛いもんは辛い」。なので、「これは罰である」という考え方に耐えられる人のほうが少数派だと思います。

もちろん、本人にとってその考え方が救いになるのであれば、それは(他人に押しつけない限り)万々歳だと思います!
吉玉サキさん>仰るとおり「辛いもんは辛い」です。 亡くなった母が自分を責めるタイプで、今でも思い出します「もっと自分をいたわればよかったのに」と。 言葉足らずで誤解させてしまったかもしれませんが、私としては「自分で自分を責めることはない」と思っているのです。 極端なことを言えば、進化とは辛いことから逃げつつも前に進んだ結果じゃないかな、とも考えています。 そして、意識せずに自分を責めることができるなら、意識せずに自分をいたわることも可能ではないかと思っています。 そういう方法を模索しているのです。 長文失礼しました。<(_ _)>
誠智さん

お母様は自責性の強い方だったんですね。私の母も、私自身もそうです。自責性は、他罰性に比べて「美徳」とされがちなんですよね。別に美徳じゃないし、ただただしんどいんですよね。。。

「意識せずに自分を責めることができる」って、本当にそのとおりだな、と思います。私も含めてなのですが、多くの人は自責が得意ですよね。無意識でできてる。「自分を責めない」ことのほうがむしろ難しいことなのかなぁと思います。

私も「そういう方法を模索している」中のひとりです。
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