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私が私を褒めてくれなくなった。

先日も書いたけど、手帳にその日したことを箇条書きでメモしている。

最初は単なる覚書きだった。「保険料を○月分まで払った」とか、書いておかないと忘れるからだ。

だけど、数年の間にだんだんと、箇条書きメモの意味合いが変化していった。

見返して、「今日はこんなにタスクをこなしたぞ!」と達成感を得たり、「何にもしてないと思ったけど、意外といろいろやってるじゃん」と自分を肯定したりするためのものになったのだ。

同時に、こなしたタスクが少ない(数だけではなく質も考慮して)と、反省するようになった。

反省は、体調の把握や効率化の改善につながるからいい。

けれど、ときには反省ではなく「今日はこれしかできなかった……」と落ち込んでしまうことがある。

落ち込むのはメリットがないし、何より自分がしんどい。

そうわかっていても、どうしても落ち込んでしまう。

数年前、それであまりにも落ち込んで、自己啓発本を手に取ったことがある。

すると、

「できたことを書き出そう」

「何もしていないようでも、何かできていることがあるはず!」

「できた自分を褒めよう!」

といった前向きな解決策が書いてあった。

ひねくれているようで素直な私は、それ以来、あまりに何もできなくなって落ち込むと、手帳に「その日できたこと」を書き出すようになった。

昨年の3月後半から、まさにその状態が続いた。心の調子を崩して仕事も家事もできなくなったのだ。

手帳の3月~5月のページには、「洗濯ができた!」「布団をたためた!」「着替えができた!」などと書いてある。

洗濯を「した」ではなく「できた」と書いていたり、さらにはその後に「すごーい!」と書いていたりと、どうにか自分を肯定しようともがいていたことが、手帳からうかがえる。

……と他人事のように書いたのは嘘だ。自分を肯定したくて、息を止めて手帳を書いていたときのあの心情を、今もはっきりと覚えている。

手帳を読み進めていくと、GW明けから「着替えができた!」の文言が消え、代わりに「散歩ができた」が増える。

同時に「布団がたためた」「洗顔できた」「お風呂に入れた」も消える。

それらのことが当たり前にできるようになったから、わざわざ書かなくなったのだ。

6月にはすべての行動が「~できた」ではなく「~した」という表記に戻った。

回復するに従って日常生活のあらゆることが「できて当たり前」になり、仕事以外のことはいちいち書かなくなった。

そして、自分に課す課題も増える。

3月~5月は、目標が「今日はnote更新するぞ!」で、1記事書ければ「できた! 私えらーい!」だった。

それがいつの間にか、「今日はnote更新して、あのメディアの原稿書いて、別の原稿の修正もやって……」になっている。

そして、達成できても私が私を褒めてくれなくなった。

「そんなの、仕事なんだからやるのが当たり前でしょ?」といった感じだ。

そして、たとえば3つ設定した目標のうち、2つできても残りの1つができなかったら、厳しい叱責が飛んでくる。もちろん、自分自身から。

よく「うちの親、90点とっても褒めてくれなくてさ、それどころか『なんであと10点とれなかったの?』って怒る人だったんだよね」という話を聞く。

私の両親はそういうタイプではなかった。たしかにそんなに褒められはしなかったけど、否定されずに育ったほうだと思う。

だけど、私の場合はそういう「自己肯定感低い子どもを生み出す親」みたいな人格が脳内に棲みついている。

親の影響でもないだろうに、なぜだろう?

……と考えそうになったけど、やーめた。

考えてもどうにもならないから、今日もできたことだけを手帳に書き入れる。



あと3分何か読みたい気分の方はこちらをどうぞ! 人生でいちばん好きな映画にまつわるエッセイを書きました。


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