中央線 #金曜ビター倶楽部

中央線に、会った。

中央線は朱色のトレーナーを着ていた。そのトレーナーがもう少し黄みがかっていて緑のラインが入っていたりしたら、あるいはわたしは「彼は東海道線なのでは?」と疑ったかもしれない。

けれど、わたしは彼が中央線であることを確信した。わたしの確信はわりかしよく当たる。

中央線はB型っぽい天秤座っぽい男だったが、そこのところは本人に確かめたわけではないのでわからない。彼はやせっぽちでめがねをかけていた。

わたしたちはお手頃な値段のわりに高級感のある和風ダイニングのすみっこのテーブルで杯を重ねていた。

一人でこのお店に飲みに来たら、入り口で中央線に声をかけられたのだ。「お一人ですか? ぼく、中央線です。一緒に飲みませんか?」と。

わたしはそれには何とも応えず、「いらっしゃいませ、何名さまですか?」と訊ねてきた店員に「二名です」と言った。


わたしはスプリッツァを、中央線はカシスオレンジをそれぞれ三杯、飲んでいた。

あたたかい色の間接照明に照らされて、中央線の顔は柿のようだった。

「あなたは本当に素晴らしいわ」

わたしは普段なら恥ずかしくて口にできそうもない言葉を口にした。お酒の勢いも多少あるし、なにより中央線に会えるなんて滅多にあることじゃない。この機会に言いたいことを言おう、と思ったのだ。

「会社に行くときも、家に帰るときも、行きつけのバーに行くときも、姉の家に行くときも、わたしを運んでくれるもの」

「それらはそれぞれ、どこにあるのですか?」

中央線の口調は英文和訳みたいだ。

「会社は東京駅で、家は西荻窪で、行きつけのバーは吉祥寺で、姉の家は立川で、それぞれ降ります。ちなみに大学はお茶の水でした」

わたしも負けじと英文和訳調で応えた。

「それはそれは」

なにがそれはそれはなのかよくわからないが、とにかくわたしがたいへん頻繁に中央線を利用させていただいていることは伝わっただろう。

「この前まで恋人だった男の家は国分寺でした」

「それはそれは」


「あなたの素晴らしいところは、わたしを目的地まで運んでくれるっていうあなたの本来の存在意義の他にもう一つ、あると思うの」

「……なんです?」

彼のめがねの奥の目がじんわりと細くなった。

「わたし、男と別れた帰り道、国分寺駅で思ったの。
さっきこの駅に降り立った時、わたしは彼の恋人だった。でも、同じ駅で電車を待っている今、わたしは彼の恋人ではない。それだけの事実が、どうしようもなく、どうしようもなく、辛くって。
わたし、今ここで泣いてしまいたいと思った」

でも、わたしは泣かなかった。泣いたら負けだ、と思った。何に対しての負けかわからないけれど。わたしはさぞかし平気そうな、今しがた失恋してきた女には見えない顔をしていたと思う。

「そこへ、あなたがもうすぐ国分寺へやってくるというアナウンスが流れたの。

わたし、ふらふらと立ち上がった。あなたがホームへ滑り込んできてあなたのドアがゆるゆると開いたとき、いちばんに乗り込めるように。それがわたしの癖なの。わたしいつも、混んでいなくとも、線路ぎりぎりのところに立って待つの。

前の駅からこちらへするすると走ってくるあなたの鼻っ面が見えた。わたし、ふと思ったの。このまま、前へ進んで線路に落ちて、あなたに体当たりしちゃおうかな、って」

「それで?」

「それだけよ。わたしは結局それを実行しなかった。あなたが来て、わたしの目の前でドアがゆるゆると開いて、わたしは乗り込むなり空いてた座席に腰掛けて、目を閉じた。西荻窪まで、そうしてた。それだけよ」

「で、ぼくの素晴らしいところは?」

「だから、いざとなったらわたしを殺してくれるところよ。わたし、いよいよ駄目になったらあなたに殺してもらおうと思ってる。山手線も東海道線も京浜東北線も厭よ。あなたが、いいわ」

「いざというときが来ないことを祈るよ」

その言い方があまりに気障ったらしかったので、つぼみが開くようにぱちりと、むかむかした気持ちがはじけた。


「あなたの厭なところを教えてあげましょうか」

「あぁ、ぜひ教えていただきたいね」

彼が、これからわたしの口から発せられる言葉に怯えているのがわかった。けれどそれをわたしに悟られまいとしている彼が、可愛い反面、憎たらしかった。

「あなたはわたしを目的地に運んでくれるし、いざとなったら殺してくれもするわ。けれど、あなたは私を故郷へは連れて帰ってくれないじゃない。わたしが行きたいのは国分寺でもあの世でもないのよ、山形なのよ」

中央線はわたしの目をじっと見ていた。目を逸らしたら負けを認めることになると思っているのかもしれない。

わたしはますます腹がたった。わたしは、負けず嫌いが嫌いなのだ。

「わたしがあなたに飛び込まなかったのは、死ぬほどの失恋じゃないと思ったから。そう、死ぬほどじゃない。

わたしあの日国分寺駅のホームで、実家のことを思い出してた。色褪せた畳のへりに挿してある水色の丸いピンや、正座して洗濯物を畳むお母さんの膝小僧、お父さんが飲む黒ラベルの瓶、居間に飾ってある北海道土産の木彫りの熊……。

わたし、実家に帰りたいと思った。失恋して実家に帰るなんて格好悪いけど、実家に帰って、お母さんの作ったかぼちゃのそぼろ煮を食べて、お父さんに『こっちに帰って見合いしろ』っていつもの台詞を言われて、安心してまた東京に戻りたかった」

そうなのだ。実際、自殺するほどの失恋ではなかった。

五年も付き合った恋人から「他に好きな人ができた」とお決まりの台詞を言われても、その『好きな人』がわたしの大学時代の親友でずいぶん前から二股をかけられていたと知っても、本当に死のうとは思わなかった。

ただ、いざとなったら、これ以上辛くなってもうどうしようもなくなったら、中央線に飛び込もうと思っただけだ。死ぬのは極端すぎる。死ぬという選択の前にワンクッション欲しい。実家に帰りたい。

「あなたは確かに素晴らしいわ。東京へも吉祥寺へも立川へも連れて行ってくれる。でも、あなたは山形へは連れて行ってはくれないじゃないの。一番行きたいところへ連れて行ってくれないなんて、電車として価値がないわ」

わたしはひどく残酷な気分になっていた。

中央線じゃ山形へ行けないのは仕方がないことなのに。わかっていても、責めずにはいられなかった。

涙がじんわりと浮かんできて、わたしはそれを悟られないよう、下まぶたをゆっくりと持ち上げた。中央線のグラスに少しだけ残ったカシスオレンジの色がぼやけた。


「あなたは負けず嫌いですね」

「え?」

「確かに、死ぬほどの失恋じゃなかったのかもしれない。でも、辛かったんでしょう? 悔しくて悲しくて、自分の価値を否定してしまったり、したでしょう?」

「……わかったようなことを言うのね」

「毎日あなたを乗せてますから。
あなた、そんなに辛かったのに、何故泣かなかったんです?」

「え?」

「あなた、さっき言ったじゃないですか。国分寺駅で泣かなかったって。実際、あなたはぼくに乗ってからも泣かなかった。西荻窪まで、涙をこらえて、泣きそうだということを周りの乗客に悟られないようにして。今だってそうだ」

わたしは、絶対に人前で泣かない。泣いたら、負けだ。

泣いたら、恋人だった男に、親友だった女に、東京での一人暮らしに、いい女ぶってる自分自身に、負けてしまう。

「死ぬとか実家に帰るとか、ぼくに言わせりゃ極端すぎます。その前に、もうワンクッション置きましょうよ。

あるでしょ? 泣くっていう行為が」

わたしが実家へ帰らなかったのは、実家に帰ると泣いてしまいそうだったからだ。たとえ中央線で山形へ行けたとしても、わたしは行かなかっただろう。こんな私に、中央線を責める権利などない。

「泣いても、いいんですよ」

中央線のその言葉で、わたしは催眠術を解かれたようにわあわあ泣き出した。

目をつぶって、両目から溢れ出る涙を両手でぬぐって、鼻水を垂らして、過呼吸を起こして、泣いた。

きっとわたしは今まで『何があっても泣かない』という催眠術をかけられていたのだ。見栄っ張りなわたし自身によって。

喉がひりひりして、もう声が出ないと思っても、案外声はいつまでも出た。生まれて初めてこんなに大きな声を出した。


いったいどれくらい泣いていたのだろう。

いつの間にやら眠ってしまっていたらしい。目を開けると、そこは電車の中だった。

―次は、終点、東京です。お降りの際はお忘れ物のないようお気をつけください―

中央線だ!

今は何時だろう? 折り返し西荻窪に帰れればいいのだけれど…。

わたしは時刻を見ようと、バッグの中に手をつっこんで携帯電話を探した。

すると、覚えのない紙きれが手に触れた。取り出してみると、新幹線の切符だ。『東京→山形』と書いてある。

瞬時に、理解した。これは中央線がくれたものだ。

中央線が東京駅に着き、ドアがゆるゆると開いた。

わたしは中央線から降りると、そのカシスオレンジ色の車体を撫でた。そして「ありがとう」と言った。

ありがとう、ありがとう。周りにいた数人が怪訝な顔でわたしを見ていた。

わたしは階段を降りると、夜の新幹線乗り場へと向かった。

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吉玉サキ

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