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ゲストハウスなんくる荘17 あたしは誰

あらすじ:那覇にあるゲストハウス・なんくる荘にやってきた26歳の未夏子。旅するように生きる彼女は、滞在日数を決めないままダラダラとなんくる荘に居つき、長期滞在者たちと打ち解けていく。ある日、地元にいる弟からLINEが届き、初恋の人の近況を知る。

前回まではこちらから読めます。

その日の朝、みんなでモンちゃんを見送った。

なんくる荘の前で、長期滞在者の集合写真を撮る。わかりやすく馴れ合うことに、冷笑的にはならない。だけど、気恥ずかしさはある。

モンちゃんはいつもの屈託ない笑顔で手を振り、去っていった。

ヒロキ君はモンちゃんの姿が見えなくなるまで見送るかと思いきや、誰よりも早くなんくる荘の中へ戻ってしまった。そういえば、モンちゃんになついていたネコンチュの姿もない。

モンちゃんが長崎の実家に着くのは何日後だろう。着いたらまず、何をするだろう。

そしてこの後、どういうふうに生きていくのだろう。

バイトから帰ると、マツダマートに入っていくアキバさんを見つけた。マツダマートの前にバイクを止めて、アキバさんが出てくるのを待つ。

「アキバさん」
「おお。今仕事帰り?」
「うん」
「俺は今日バイトないんだよ」

アキバさんの持つ袋に泡盛のビンがのぞく。あたしはバイクを押して、アキバさんと並んで歩いた。

「大丈夫だった? 寝ないでバイト行ったでしょ」
「大丈夫だよ、これくらい」
「若いからなぁ。おじさんにはもう無理だ」

ふと、いつかクーラー部屋でヒロキ君に言われた言葉を思い出した。「ミカコちゃんみたいに根っからの自由人でもないし」という言葉だ。

「そんな人いたら会ってみたい」
「え?」
「根っからの自由人」

あたしにだって迷いはある。いつまでこういう生活を続けるのか。なんくる荘を出たら次はどこへ行こうか。今のところ、特に行きたい場所はない。

アキバさんは少し考えてから「いるかな」と呟いた。

水色の中に紺を一滴垂らしたような色の空は、遠くのほうが薄ピンクになっていた。

エメラルドグリーンの壁に『ポニーテール・ラブ』と店名らしきものが書かれた、廃墟と化した元ラブホテルの横を通り過ぎる。その屋根の上に、一番星が光っている。

あれは小学校二年生のときだった。

休み時間、学校のトイレでおしっこをした後、トイレの手洗い場で手を洗っていたときのことだ。ふと、鏡に映った自分の顔に違和感を持った。

あたしってこんな顔だったっけ?

あたし、あたしの顔。あたしはこの顔で八年間生きてきたんだっけ。そもそも、あたしは誰だっけ。あぁ、そうだ、高山未夏子だ。本当にそうだっけ。あたしは高山未夏子って名前で生きてきたんだっけ。本当に?

自分が誰だかわからなくなった。わかっているのに、わからなくなった。

暗い深い穴に落ちるような気分になって、怖くて、自分が存在していることを確かめるように鏡の前で「たかやまみかこ」と声を出した。その声も、聞き覚えのないもののような気がした。

それ以来ごくたまに、この感覚に陥る。あたしはこの感覚を「うすむらさきの感じ」と呼んでいた。小学校二年のあの日、トイレで初めてこの感覚に陥ったとき、あたしはうすむらさき色を感じとったのだ。

今日、久々におとずれたうすむらさきの感じに飲みこまれながら、あたしは海に浮かんでいる。

モンちゃんがいなくなって二週間。なんくる荘は変わらない。

相変わらず、短期滞在の旅行客が来るばかりだ。八月になり旅行客はますます増えた。マナブさんは日々忙しそうで、最近ではあたしやアキバさんが手の空いているときにマナブさんの仕事を手伝っている。

モンちゃんがいなくなって、なんくる荘に一つだけ変化があった。ネコンチュだ。モンちゃんが発ったあの朝から、誰もネコンチュの姿を見ていなかった。

「モンちゃんを追って長崎まで行ったのかも」
「日本一周の旅に出たんだよ。モンちゃんがゴールしちゃうから代わりに」

みんな、口々に勝手なことを言った。誰もが、ネコンチュが元気に暮らしていると確信していた。

今朝、陸生にようやく返信した。

『広治さんにおめでとうって伝えておいて。広治さんの奥さんにも。あんたと美希ちゃんもおめでとう。18日出席します。実家に帰ります』

あたしは誰だろう。

あたしは本当に高山未夏子で、二十六歳で、陸生という弟がいるのだろうか。

すべてが他人事に思える。海がうすむらさきになっていく。

それでも。あたしはここで泳ぎ、なんくる荘で酒を飲み、みんなと喋り、水泳を教え、ご飯を食べる。

あたしは高山未夏子としてたしかに生きている。

あたしの過去も家族も、あたしを形づくってきたすべてのものを、なんくる荘の人たちは知らない。それでも、あたしがここに存在していることを、あの人たちは知っている。強く、確かに、知っている。

あたしは手をぎゅっと握る。爪が手のひらに食いこむ。あたしはあたしが存在する感触を確かめる。




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