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好きを口に出すことと、好きが磨耗すること

二年ほど前に、突如としてお笑いコンビの和牛を好きになった。

当時はまだ全国放送でのテレビ出演が今ほど多くなくて、私は毎日、彼らの動画を漁った。

日に日に思いが募る。次第に、その気持ちを自分ひとりの胸のうちにしまっておけなくなった。和牛が大好きなことを、誰かに言いたい。

感情が重すぎてひとりで背負うのが苦しいから、切り分けてほかの人にも背負わせたいのだ。

同時に、「誰かに言ってしまうのが勿体ない」とも思う。この重みを独り占めしたい。単純に、知られるのが恥ずかしいという気持ちもある。

しばらくの間、言いたいけど言えないという葛藤の中にいた。

正確には、私は周囲にライトな感じで「和牛好きなんだ~」と話していた。しかしそれが、語り口の軽さに似つかわしくない「好きでたまらない」気持ちであることは、誰にも言えなかった。

実家に帰っていたとき、私が和牛の出演番組を見ていると母がチャンネルを変えようとしたので、

「あ、これ見てるから。和牛好きなんだよね」

と言った。

すると、あとから部屋に来た父に母が、

「お父さん、チャンネル変えないでね。サキちゃん、この人たち(和牛)好きなんだって

と言った。

その瞬間、私は激しく動揺して赤面してしまった。

34歳(当時)の主婦なのに、親に好きな男の子がバレた小学生の気持ちになる。恥ずかしくて、居ても立ってもいられなかった。


小学生の頃、1年から5年まで、ずっと同じ男の子が好きだった。

そのことを、私は誰にも言わなかった。友達に好きな人を聞かれても「いないよ~」で通した。好きな人がいることすら、知られたくなかった。

だから仲間内で「○○君が好き」と公言できる子を見るたび、なぜそれを言えるのかが不思議だった。どんな情緒してんだ、と。

けれど、中学生になって思い切って友達に好きな人を打ち明けてみたら、めちゃくちゃ快感だったのを覚えている。

なんだこれ、好きトークすごい楽しい……!

それ以来、好きな人ができるたびに、友達に言わずにはいられなくなった。

片思いはそれ単体でも楽しいし、それを友達に共有することでまた楽しめる。一粒で二度おいしい。

しかし、そんなふうに好き好き言って盛り上がってる自分を、「あーあ、自分の好きをコンテンツとして消費してるなあ」と客観視している自分もいる。

それがさもしいことに感じられるし、一方で「いや、自分の感情をより楽しんで何が悪い?」とも思う。

話を和牛に戻すと、このあたりの葛藤が「好きだと言いたいような、誰にも言いたくないような」に繋がっていた。たぶん。


結局私は、和牛を好きだと言いたい欲に抗えず、noteでさんざん思いを綴った。

それはとても楽しく愛しい作業だった。けれど同時に、愛の寿命を縮めたように感じる。事実、今の私は以前ほど和牛に熱心ではない。

どうやら私の場合、「他者に好きを打ち明けたとき」と「誰にも言わなかったとき」では、後者のほうが好きな気持ちが持続するようだ。

一方で、私の友人はあるバンドの大ファンで、10年以上も同じ熱量で愛を叫び続けているけど冷める気配がない。口に出すことで好きが磨耗する人(私)と、そうじゃない人がいるんだろうな。

最近、またある人たちのファンになったのだけど、それは今のところ誰にも言っていない。

例によって、好きすぎて苦しいから誰かに言ってしまいたいのだけど、あえて誰にも言わずに思いを抱え込んでみようと思う。

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