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ツイッターやnoteから離れる日がある

人疲れしやすい。

自分のことを、コミュニケーション力がないほうだとは思わない。人見知りだけど、(適切な距離感で)話しかけられればふつうに受け答えをするし、誰とでも「そこそこの付き合い」はできる。

かといってコミュニケーション力が高いほうでもない。なんていうか、ふつう。可もなく不可もなくといったところだ。

だから自分のコミュニケーションについて「できる/できない」という観点で問われれば、「相手と場合による」というなんとも曖昧な返答をするしかないのだけど、はっきり断言できることもある。

それは、「人疲れしやすい」ということ。

他人が大勢いる場所に長時間いると、とても疲れてぐったりしてしまう。

そういう場が「好き/嫌い」でいうと5段階評価の3だし、そういう場で適切な振る舞いが「できる/できない」でいうとやっぱり5段階評価の3だ。

だけど、そういう場が「疲れる/疲れない」でいうと、5段階評価の10。数値振り切る勢いで疲れる。疲れること山の如しだ。

何度でも説明したいけど、人疲れは、人が好きか嫌いかとか、コミュ力の高低とはまったく別の概念だと思う。

だから、「人疲れ=人間嫌い」「人疲れ=コミュ障」という決めつけは、脳内のコミュニケーションに関するカテゴライズが雑だと思う。

私はnoteやTwitterなどで他人の言葉に触れることが好きだし、自分で言葉を発信することも好きだ。

だけどたまに、それがひどく億劫に感じることがある。

少し前までその理由が自分でもわからなかったのだけど、最近、「単純に人疲れだな」と気づいた。

SNSは鍵アカウントじゃない限り、他人が大勢いる場所だ。

リアルで言えば、「知ってる人もいるけど、知らない人もたくさん参加しているパーティー」みたいなもの。私がたまに疲れるのは、考えてみれば当たり前じゃないか。

SNS疲れなんて言葉があるけど、SNSに限らず、他人が大勢いる場所は疲れる。

それだけのことなんだな、と思った。

疲れを感じたときは、noteやTwitterを見なくなる。

かといって、アカウントを削除するほど極端でもない。

古い知り合いに、しょっちゅうSNS疲れを表明してアカウントを削除しては数ヶ月でまた新しいアカウントを作る男性がいるのだけど、「新アカウントです。フォローよろしく」みたいなメッセージが来るたびに、彼がアカウントを削除してたことすら忘れていた自分に気づく。

彼のSNS疲れも、彼のアカウントも、彼以外の人間にとってはどうでもいいことなのだ。

それは私にも言えることで、私がしばらくSNSから離れたところで、誰も何も思わない。

その思いは「どうせ私なんて」といったネガティブな意味合いではなく、「世の中は気楽」という軽やさを内包している。

軽やかなもの、好き。

webで文章を書くことを仕事にしている以上、SNSで拡散されている記事をたくさん読んで勉強したほうがいいのだろう。SNS上で話題になっていることや、広まっている言説に詳しくなければ。

……とは思うのだけど、最近はどうにも人疲れが激しく、小説や漫画ばかり読んでいる。最近読んだのは、ゾンビに包囲されたペンションで連続殺人が起こるミステリ。まったく、仕事に活かせそうにない。

まぁ、こういうときもあるよねぇ。

webで文章を書く仕事をしていると、SNSでの拡散までを「仕事」として依頼されている(と直接言われたことはないけど、私はそういうふうに忖度してしまう)面がある。

原稿の依頼もほぼSNS経由なので、もっとアカウントを「運用する」とか「育てる」という意識でいたほうが、仕事につながるのかもしれない。

わかっていても、どうにも頑張れないときはあって。

食い詰めない程度に、頑張ったり頑張らなかったりするしかないんだよなぁ、と思う。





人疲れというか、山小屋はプライベート空間が少ないから泣き場所に困る話。コミュニケーションについて思うところある人はぜひ読んで。

この連載ではじめてネガティブなことを書いた。

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