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切なさの置き場

楽しいことや嬉しいことが好きだ。悲しいことや腹が立つことは嫌い。

じゃあ、「切ない」はどっちだろう?

切なさが好きなのか嫌いなのか、自分でもよくわからないのだ。

◇◇◇

だいぶ前のことだけど、『秒速5センチメートル』を観た。新海誠監督によるアニメーション映画だ。

その日はたまたま夫がいなくて、夜、一人で布団に寝転がって観た。

じんわりじんわりと切なさが浸食してくる。観終えたときには心の中が切なさでたぷんたぷんになっていて、寝つけなかった。結局、眠れないまま朝になってしまった。

しばらくして、友人のけん玉にそのときの話をした。

私が「切なくて眠れなくなった」というと、けん玉は両手をグーにして鎖骨のあたりに当てて、か細い声で「うぅ~!」と呻きながら体を左右に揺らした。切なくて眠れない私の再現だろう。

なんでわかるんだ、と思った。

なんで、切なくて眠れないときを表すジェスチャーを知っているんだ。どこで知ったんだ、そんなもの。

まさか、切ないというあの感覚は人類の共通認識なのか。

そんなことってあるだろうか。あんな複雑な感情を、そんなに簡単に共有してしまっていいのか。

◇◇◇

それから何年か経って、同じ新海監督の『君の名は。』がヒットした。

それでけん玉と新海作品について話していたとき、

「サキさんは『秒速5センチメートル』好きやんな」

と言われた(ちなみに大阪弁は適当に再現しています)。

「え? あ、うん。好き、かなぁ」

そんな煮え切らない返事になったのは、私自身『秒速5センチメートル』という作品が好きかどうか、よくわからないからだ。

私はあの作品を観て、眠れないほどに切なくなった。

だからと言ってあの作品のことを「好き」と言ったことはないし、高く評価したこともない。

だけど、けん玉は「切なくて眠れない」から「好き」と解釈した。

なんでやねん。

と、けん玉っぽく思ってみた(彼は意外と「なんでやねん」を言わないが)。

◇◇◇

ときたま、無性に切なくなる。

たとえば、山小屋で働く11月。自分で書いた業務日誌を読み返していて、6月頃のページに、あるスタッフの名前が「ちゃん付け」で書いてあるのを見つけたとき。

あぁ、今は当たり前のように呼び捨てで呼んでいるけど、たった数ヶ月前の私はちゃん付けで呼んでいたんだ!

と驚いたとたんに、切なさでたぷんたぷんになる。

胸が苦しくて、涙がこみあげてくる。でも、不思議と「もう二度とこんな気持ちは味わいたくない」とは思わないのだ。

◇◇◇

切なさを思い出すときそれは、静かでひんやりとしていて、紫色っぽくて薄暗い。

また、切なさに幸せを足したような気持ちもあって、こっちは、白っぽくてぼんやりと発光していて温かい。たぶんこれは「エモい」と呼ばれるやつだ。

そして、切なさにとびきりの愛しさや情熱を足したような感情もあって、それには名前がない。私は「クーッ……! となって呼吸困難になるやつ」と呼んでいる。これは、とびきりカラフルな風船が次々に割れていくような感じだ。

◇◇◇

切なさを感じたとき、その感情をどこに分類したらいいのかわからない。

ごみの分別に迷うときのように、「切ない」という感情を持ったまま途方に暮れてしまう。

切なさは、切なさでしかないんだ。







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