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四月ばかの場所1 引越し

天使のような男、という言葉が浮かんだ。

あたしが具体的にイメージできる天使といえば受胎告知でおなじみの大天使ガブリエルで、ということはあたしにとっての「天使のような男」は「処女に『アンタ妊娠してるよ』って言っちゃえる男」で、それはつまり三年ぶりに会うなり

「お前、妊娠してんじゃない」

と、なにやら不穏なことを真顔で言ってあたしをぎょっとさせている、この四月ばかだ。

「してないけど」

「そう? そっか。妊娠してんのかと思った。いや、してると思う。してるわ、たぶん」

ここ一年彼氏はいないし、ここ一ヶ月妊娠するような行為もしていないのだが。

「なんでよ?」
「いや、体型がね。ぽっちゃりしたから」
「うるせーよ」

四月ばかはでかいバックパックを背中から降ろし、ポケットからピースを取り出して咥え、パッケージを握りつぶした。バックパックからはどこかの民族楽器らしい長い木の笛がとびだしている。

「受胎告知かと思った」
「ん?」
「マリア様に妊娠してるって告げるやつ。ガブリエル」
「あぁ、あのマッチョのね」
「マッチョなの?」

あたしは食器棚から新聞紙にくるまれたコップ(だと思われるもの)を二つ取り出す。新聞紙を剥ぐと、二つともごつごつした青いガラス製のビアグラスだった。唯一ペアで持っているそのグラスを洗って、麦茶を注ぐ。四月ばかの前に置くと、ごとり、と思いのほかけだるい音がした。

「駅から遠かったでしょ、迷わなかった?」と言おうとして口を開きかけたとき、四月ばかがあたかも重要なことを思い出したかのように「処女じゃないでしょうが」と言った。まだ引っぱるか、受胎告知を。

「処女だよ」
「うそつけ」
「そりゃあうそだよ。野暮なことを言うな」

あたしが言うと、四月ばかは喉元に用意されていたような声で笑う。

ああ、四月ばかだ。かつて毎日のように耳にしていたその笑い声にあたしの耳が順応する。耳からしみしみと広がって、あたし全体が四月ばかに順応していく。

「仕事でお酒飲むからどうしても太っちゃうんだよ」
「今くらいがちょうどいい」
「ちょうどいいでしょ。色っぽくて」

青いガラス越しの麦茶は何色とも言いがたい色で、あまり美味しそうじゃない。グラスを持ち上げると、床にグラスの底の円い跡が残っていた。あたしはその水滴を指で伸ばす。

「俺のほうが色っぽいって。ジョニー・デップか俺かってくらいだから」
「いや、ダスティン・ホフマンでしょ。シルエットが」
「てめー」

四月ばかが笑いながら指を鳴らす。三年前は赤い石の嵌った錆びた指輪をしていたように思う。

彼は指を鳴らしながら首を左右に倒し、ばきっばきっと音をたてる。そのまま上半身を反らせて頭を後ろに倒したので、正面に座っているあたしからは彼の大きなのどぼとけと髭に縁取られた顎だけが見えた。

「俺の部屋どっち?」

四月ばかは背後の二つのドアを見ている。

「そっち」

あたしが左のドアを指すと、四月ばかは「よっしゃ」とも「よっこらしょ」ともつかない声を漏らして立ち上がり、そのドアを開ける。あたしも立ち上がって、四月ばかの背中越しに部屋をのぞく。

カーテンの取り付けられていない窓から射しこむ陽ざしが、空中に舞うほこりを照らしている。それを見ると、とたんに鼻がむずがゆい気がした。テレビで見た、杉の木から大量の花粉が舞い散る映像を思い出す。

「おー、日当たりいい」

何もない部屋だ。六畳のフローリングの床の真ん中に小さなダンボールだけが置いてある。昨日あたしが受け取ってそこに置いたのだ。

四月ばかは窓枠に手をかけ、外を眺める。あたしも、窓から向かいの家の庭に咲いている桜とこぶしを見下ろす。

枝は塀の上から道路に張り出していて、アスファルトに小さな薄紅色の花びらと大きな白い花びらがぽつぽつと落ちている。こぶしのほうは、茶色っぽく変色しているのもあった。

四月ばかが窓を開け煙草に火をつけたので、一本もらう。

煙草を吸う四月ばかの横顔は、三年前よりも日に焼けているし、すこしがっしりしたかも。でも眠そうな瞼と短くて薄いまつげはたしかに四月ばかだ。

その後、彼は「いいですねぇ」「お、これはなかなか」とエロオヤジのようなことを言いながら(誰かのモノマネなのかもしれない)トイレとバスルームを探索し、最後にあたしの部屋のドアを開けた。

布団とコンポと本棚と姿見、ノートパソコンとプリンタ、大きなダンボールが六つ、「とりあえず」といった感じで置かれている。

「何入ってんの、これ」

四月ばかがダンボールをたたく。

「服とか」
「痩せてたときの?」大丈夫? 入る?
「うるさいよ」

言いながら、自分でもくっくっと笑ってしまう。

「今のほうがいい。早季が痩せてるとなんか物騒だから」
「物騒」
「ほら、色々あるでしょ、リストカットとか」

ずいぶん大雑把な物言いだが言いたいことはなんとなくわかる。

「現代人の心の闇、みたいなの」
「そうそう」
「そういうふうに見えるんだ」
「違う?」

天使のような男、とまた思ってみる。四月ばかはまったくもって純真ではない。意外と低俗だし、あたしには不躾だけど対外的には空気を読む。

だけど不思議と「天使のような男」というフレーズが似合って、あたしは少し後ろめたさを感じる。まるで、相対的にあたしが低俗なものであるかのような後ろめたさだ。

「早季、昨日来たんだっけ?」
「そう」
「今日、仕事は?」
「休み」
「井の頭公園で飲むか」

四月ばかの半径一メートル以内の空気は、周りの空気より少しだけぬるい気がする。

サーモグラフィで見たら、四月ばかの周りだけきっと心地よいオレンジ色だ。あたしはきっと、真っ青か真っ赤だろう。




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