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「諦める」といふ言葉の意味

いつもお読みいただきありがとうございます。


もう一週間くらい前のことですが、良い本を読みました。

「諦める力」

現代日本において「諦める」という言葉には、ネガティブな印象がつきまといます。

力がないことを自覚し、「放棄する」とか「断念する」、「ギブアップする」という意味を、通常、連想します。


しかし、これは本来仏教用語で、「あきらかにする」「つまびらかにする」という意味があるというのを知っていますでしょうか。


つまり、「自分というものを的確に判断し、できることできないことを見極める」という意味があるといえるでしょう。 


この「諦める」の「諦」という漢字は、大乗仏教経典の原典が書かれているサンスクリット語では [satya]とに対応する漢字で、[truth]、[essence]の意味があります。日本語では「真理」とか「悟り」という意味です。


仏教の最も根本的な教えである「四諦八正道(したいはっしょうどう)」「諦」に使われている漢字です。


「四諦(したい)」とは、「四つの聖なる真理」のことです。「四聖諦(ししょうたい)」とも言います。

簡単に説明すると

・「苦諦(くたい)」・・・人生とは本質的に苦であるという真実。

・「集諦(じったい)」・・・尽きない欲望が人生の苦の原因であるという真実。苦には原因があるという真実。

・「滅諦(めったい)」・・・とは欲望を滅し、それから解放された境地が理想の状態であるという真実。

・「道諦(どうたい)」・・・苦しみを滅する道というものがあり、それは八正道であるという真実。


四諦は、英語でも[Four Noble Truth]と訳されております。

(※ちなみに八正道というのは涅槃に到るための実践道徳のことですが、もし知らなくて興味ある方は自分で調べてみてください)


「あきらめる」という大和言葉に「諦」という漢字をあてたのは、まさに秀逸だと思います。 日本はやはり仏教国ですな。


「あきらめる」という言葉がいつからネガティブな意味に使われ出したのかは不明ですが、元々は真理をついた言葉だったということです。


反対に「頑張る」という言葉があります。


仏教学者ひろさちやさんの本「人生はあきらめるとうまくいく」に書いておりましたが、明治、大正までの日本人は「頑張る」という言葉に良い印象はもっていませんでした。

ひろさんの出身である大阪では、昔「あの人、頑張ってはるわぁ」というと、少し批判めいた意味が込められていた、とも書いております。


でも今の日本では、「頑張る」ことは非常に良いこととされております。「頑張る」には「無理をしてでもガムシャラにやり通す」という意味が強く、日本人の精神構造に根強く巣くっています。


日本人は「頑張る」のが好きです。 過労死するまで働く人もいるのです。 


「諦める」という言葉がもともと真理をついた良い言葉だったのに対し、「頑張る」という言葉は元々批判めいた言葉だった。 


そしてこの二つの言葉はそれぞれ反対の意味にとられ兼ねないような意味へと変遷し、今の日本人を縛りつけています。


ちなみに、「頑張る」という言葉が市民権を得たのは1936年のベルリンオリンピックの時と言われており、ラジオ中継で


「前畑ガンバレ!」


と連呼されたことで定着したとのことです。これもひろさちやさんの本に書いておりました。

1936年という時代は、日本が軍国主義に突き進んでいった時代と重なります。


「頑張ることが良い事」とし始めた日本人は、頑張りすぎて国が亡ぶまで戦争に突き進みました。 そして、戦後も軍国的で管理主義的な教育体制は残ったので、今でも日本人のメンタリティは当時とあまり変わっておりません。 もしかしたらまた国が滅ぶまで突き進んでいくかもしれません。


「諦める」ことの本当の意味を知っていれば、あの戦争には、もっと適当な負け際があったように思います。

(※ちなみに、ひろさちやさんの「さちや」は「諦」のサンスクリット語[satya]とかけているそうです笑。 「ひろ」はPhilosophy、つまり哲学のことですね。秀逸なネーミングです。)



言霊の国である日本は、間違った意味の言葉を使い続けることで、その影響を強く蒙ります。 「頑張る」「諦める」もその最もたるものでしょう。


私は「頑張って」と言われたら、「いや、頑張らないよ」などと言って茶化したりすることがありますが(笑)、それでも人には「頑張って」と言ってしまうことがあり、現代の日本には「頑張る」以外に適当な言葉がなかなかないことに驚きます。 


ちなみに、「お疲れ様です」も良い言葉ではないでしょう。


「頑張れ!」「お疲れ様!」 


日常でこういう言葉が飛び交いますね。 日本人、きついはずです!!! 


ちなみに、私の従兄弟は中学から中高一貫の明治学園という頭の良いところに通っていて、挨拶は「ごきげんよう」だったと言っていました。 


言葉が人生を創ると知って教育されていたのでしょう。 上流階級の人はそういうところから違うのだと思います。



話はかなり逸れました。



「諦める力」を書いた為末さんは、オリンピックの陸上で銅メダルをとった方です。


その為末さんは、高校生の時それまで100メートルの選手だったのですが「努力しても100メートルでトップに立つのは無理かもしれない」という感覚を味わったらしいです。 


でも次第に「100メートルでメダルを取るよりも、400メートルハードルの方がずっと楽に取れるのではないか」と思い、「勝つことを諦めたくない」ために100メートル競技を「諦めた」のです。 


彼は自分でも言っておりますが、100メートルのまま勝負していたら上にはいけず、並の選手として埋もれていただろう、とのことです。


彼は自分の能力や可能性を的確に見抜き、「あきらか」にした、つまり「悟った」と言っても良いと思います。


この本を読んでいるときに、私は「自分はずいぶん無駄な努力を続けてきたものだ」としみじみ思いました。


私は、典型的な日本人である為「頑張る」ことに意義を感じ、「頑張る」ことが目的になりがちな人です。


もう少し続けます。 もう少しだけお付き合いください。


為末さんの本を読んだ後、高校のころの友人と二度ほど飲みました。 そいつは、高校の時は陸上部のハンマー投げの選手で、高校で一、二を争うほど力が強く、また喧嘩も強い自信満々の不良だったのですが、大学の体育学部に入ってみると自慢だった自分の力がそんなに大したことがないと思わされ、努力をしても陸上では上を目指せないと思い、また金儲けならいけるかなと思い、彼は今は社長をしております。


これも、「諦め」によって自分の適性をしっかり見抜いたということです。


私も、これからする努力は、自分にあった努力をしなければならないと思った次第です。
 

「努力すれば何でもできる」というのは嘘です。確実に「努力してもできないこと」はあります。


冷静になって、自分をしっかりと観て、正しく努力する方向を見極めなければなりません。




もっと他にも書きたかったのですが、長くなったので今日はこの辺で! 


ここまでお読みいただきありがとうございました。









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