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松竹アニメプロジェクト(略称SAP)を立ち上げたころ

 1985年夏。ぼくたちは松竹アニメプロジェクト(略称SAP)を立ち上げた。
 メンバーは、ぼくと、先輩プロデューサーの升本さん、そして宣伝部の太田次長だ。
 二人とも昭和ひと桁生まれで、ぼくと親子くらい年が離れている。
 東銀座の東劇ビル18階にあったレストラン・エスカルゴに、アニメ各誌の編集長を呼んで発足の挨拶をした。アニメ各誌というのは、アニメージュ(徳間書店)、OUT(みのり書房)、ジ・アニメ(近代映画社)、マイアニメ(秋田書店)、アニメディア(学研)だったと思う。
 ぼくらは、松竹でアニメを作る、みたいなことをぶち上げてしまった。
 ぼくと升本さんが所属する映画製作本部や太田次長の所属する映画宣伝部の上司の許可はとっていなかったが、升本さんも太田さんも、それぞれに当時の上司より年上で「別に構わない」という感じだった。
 この発表の内容が、翌月の各誌の号で記事になったとは思うが、結局、SAPの3人での活動は、間もなく静かになり、現場作業はぼくだけで行うことになった。
 第1弾は、1985年8月公開の「魔法のプリンセスミンキーモモ 夢の中の輪舞」、「魔法の天使クリィミーマミ ロング・グッドバイ」、「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」である。その後、「ザ・ヒューマノイド」「県立地球防衛軍」(1986年3月に2本立て公開)と、SAPの活動はぼくだけで続けた。
 そこで思い出したが、このSAPを思いついたのは、ぼくが、当時、大船撮影所の前にあった社宅に住んでいて、升本さんも大船に住んでいた関係で、いつも松竹本社(築地)へ行く前に、午前中は、新橋駅の地下の喫茶店で打ち合わせを行っていたのだが、あるとき、ぼくがたまたまアニメの話をして、たしか「風の谷のナウシカ」を松竹でやるつもりで、徳間書店に交渉して、アニメージュ編集部の幹部と飲み会をやったりして意気投合して「やろうやろう」ということになったが、会社の企画会議を通すことができなかった、という話を升本さんにしたところ、もうすでに「風の谷のナウシカ」(1984年)は東映で公開が済んでいた時期だったが、ぼくが宮崎駿監督と仕事がしたいような話をしたものだから、升本さんがそれなら宮崎監督に会いに行こう、ということになり、升本さんが「今電話しろ」と言ったので、ぼくは「今ですか?」と答えたところ、「今すぐに電話しろ、君が言い出したんだからそうしろ」とか言われて、ぼくはアニメージュ編集部に昼前に電話して(携帯電話のない時代なので、店の公衆電話です)、宮崎監督に連絡をとりたいと申し出たところ、どの地位の人だったかわすれたが、宮崎監督のスタジオの二馬力の電話番号を教えてくれた。今では考えられないと思うが。
 ぼくがすぐに二馬力に電話すると、宮崎監督の声だった。
 びっくりしたが、それでもがんばって、「松竹で宮崎監督の作品をお願いしたいので、いちど会ってください」みたいなことを話して、数日後、ぼくと升本さんは、阿佐ヶ谷の北の天沼にあった、マンションだったと思うが、阿佐ヶ谷からタクシーをとばして二馬力を訪ねた。
 そこで、ふたたびぼくは宮崎監督に「松竹で監督の作品を作ってください」みたいな話をしたところ、宮崎監督からは、「ぼくはもうロートルだから(といってもこの時、宮崎監督は40代だったと思う)、有望な若手を紹介したい」と言われた。その若手というのは押井守監督だった。実は松竹では、しばらく前に国内初のOVAと呼ばれた「ダロス」(1983年)を、スタジオぴえろから映画館にかけてほしいと持ち込まれていたが断っていた。「ダロス」には、押井監督も参加していたのだ。
 結局、押井監督とは縁がなく、松竹でご一緒することはなかった。
 上記のようなエピソードがSAP立ち上げ前にはあった。升本さんは思い立ったらすぐに動け、という厳しい人だったが、このやり方はその後、ぼくのやり方となった。さきほど、SAPはぼく一人でやることになったと書いたが、おそらく升本さんも太田さんもぼくがもう一人でやれると思って、放任したのだと思う。代理店、製作プロダクションとの交渉から、映画館との打ち合わせ、ちらしやポスターや前売り券のデザインなど、ぼくが手配して動かした。ひとり配給会社をやった感じ。
「ミンキーモモ」と「クリィミーマミ」は、放映局は異なったが、代理店が読売広告社で同じなので、ぼくが読売広告社を交渉して2本立てを成立させた。
「ミンキーモモ」の製作会社の葦プロの加藤社長と「クリィミーマミ」の製作会社のスタジオぴえろの布川社長と、太田次長とぼくとで、宣伝戦略を練るために、東銀座・歌舞伎座前の寿司屋で打ち合わせたことを今も思い出す。あの寿司はおいしかったなあ。でもだいぶたってからその店はボヤを出して閉店してそのままとなった。
 夏休みを迎え、映画館は、東銀座の東劇前に、当時は、松竹本社と1000人収容の松竹セントラル劇場、「寅さん」のかかる邦画館の銀座松竹(「ガンダム」はここでやりました)、そして地下に、200人規模の松竹シネサロン劇場があり、ここでの公開となった。読売広告社が気を利かせて「魔法の天使クリィミーマミVS魔法のプリンセスミンキーモモ 劇場の大決戦」という5分ものの作品を付けてくれたので、豪華3本立てとなった。この2本のアニメは、そもそもOVA用に作られていて(通常のテレビアニメは16mmフィルムで撮影されている)35mmの原版だったので、そのまま映画館にかけることができた。映画はかなり当り、シネサロンの新記録を作った。いわゆる大きいおともだちの大学生や社会人が押し寄せたので、売店のおばさんは「気持ちが悪いんだけど」とぼくにささやいた。
 SAPの出足としては、かなりよかったと思う。
 ひとりでSAPをやっている間に、外部からアニメの企画も持ち込まれた。よく覚えているのが、「魔女の宅急便」。児童映画の梅村葉子さんというプロデューサーがどこで聞いたのか、ぼくを訪ねてきた。松竹のアニメの窓口はぼくということになっていたのだろうか。
 話を聞いたところ、宅急便のヤマトが協賛金として1億円を出資することになっていた。
 ぼくは、アニメ担当としてはそろそろ松竹で居場所を失いつつあったので、梅村さんに、当時「銀河鉄道の夜」で高評価を得ていた朝日新聞・ヘラルド映画か、「ナウシカ」の徳間書店のどちらかに行くのがよいとアドバイスした。今思うとヤマ勘のような無責任なアドバイスだが。松竹本社ビルの1階にあった喫茶「しゃとー」で話した。梅村さんとは感性の合うところもあって、コーヒー1杯で数時間話した。
 梅村さんは最初、ヘラルド映画へ行った。そこで断られた。
 続いて、徳間書店へ高畑勲監督でとお願いに行った。そこで断られた。
 梅村さんはどうしたものかとぼくに報告にやってきた。
 解決策を思いつかず数か月が流れた。
 梅村さんから電話があった。
「宮崎さんがやりたいと手を挙げた」そうだ。
 映画化がすぐに決まったそうだ。
 梅村さんはおおよろこびでやってきた。喫茶「しゃとー」でお祝いした。
「となりのトトロ」と「火垂るの墓」の2本立(1988年)が東宝系で公開後の1989年、「魔女の宅急便」は東映系で公開となり、配給収入20億円を稼ぐ大ヒットとなり、その後のスタジオジブリ作品が数十億稼ぎ続ける快進撃のきっかけとなった。
 ちなみにジブリ映画の代理店は、それまでの博報堂から「魔女の宅急便」以降は、「クロネコヤマト」の代理店だった電通となった。
 
 東宝、東映でスタジオジブリ作品が好調なのを横目に見ながら、結局、松竹でアニメを担当しているのはぼくだけとなり、「ガンダム」ほどの勢いのあるアニメが松竹で配給ができず、ぼくは所属の映画製作本部の縮小の際に放出されることになり、所属部署を失い、副社長付となり、気がついたら、営業部へ行くことになり、営業部で今でいうパワハラにあい(朝から晩まで、伝票の数字をひたすら電卓に打ち込む練習と、ぼくは字が下手だということで、小学生の書き取り帳を渡されて、ひたすらひらがなや数字の練習をさせられた。少しでも上司に抵抗すると、近所の喫茶店で説教され、こんなことが3か月続いた)、結局、1987年の暮れに、営業部から興行部へ回され、最後はマリオンの丸の内ピカデリーで、松竹での10年間の勤務を終えた。営業部で受けたパワハラによるPTSDみたいな症状は松竹退職後も数年続き、多少気のせいもあるけど、今でもときどき胸が苦しくなることがある。


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