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人間が行うべき行為としてのデザイン

6月22日土曜日に桑沢デザイン研究所で開かれた「危機を戦う者たちのバウハウス──創立100周年記念」でお話を聞いてきました。

この記事で、写真付きのレポートを見ることができます。

そのなかでいくつか気になったことをメモしておきます。内容のメモというよりは、あくまで、自分なりの理解の仕方であり、そのとき思ったことのメモです。

BAUという語のイメージ

前田富士男先生のお話のなかで、バウハウスの「BAU」は「建築」と訳されることが多く、バウハウスの構造を示す図の中心にあるのが「BAU」であり、「BAU」をすべての芸術を統合するものとしているのだけれど、「bauer」は建築家ではなく、農民。「BAU」は「造作」とでも訳したほうが良いということを聞きました。

たしかに「BAU」を「建築」と訳すと、納得してしまいやすいのですよね。でも、原語のイメージは少し違うものだというのは、今まで気づいていませんでした。こう思うと、少し認識が変わるように思います。建築がすべてを統合するというと、とても物質的なイメージが浮かびます。でも、もっと動きのあるもの、過程を含んだ「行為」としてのイメージのほうが、原語のイメージには近いのかもしれないと感じました。

また、ワイマールという土地の問題も興味深いものでした。既存の概念の改革ということの背景として、ワイマールがプロテスタントの拠点であったことは、関係のあることだったのかもしれません。そして、さきほどのBAUもそうですが、科学と感性の一元化というような、統合していくという発想・Monism(ひとつにする)につながっていく。エスペラント語などもこの流れと考えると、とても興味深いです。

統合されたメディアとしての映像

この「統合」はメディアへとつながっていきます。山根千明先生が紹介された、L. ヒルシュフェルト・マックの《色光運動》は、現代でいえば、映像を使ったインスタレーションだと考えられます。詳細な映像と音の指定が用意されていて、その様子は映像編集ソフトの画面のようです。これはまさにプログラミングであり、現在のプログラミングを使ったアートに直結しているように感じられました。

そして、ヒルシュフェルト・マックの言葉が非常に興味深いものでした。

「民族・共同体を表現するような存在としての芸術」はその役割を終わろうとしており、映像という統合メディアによる「内的体験」が、新たにその役割を担いつつあるという認識をもっていたようです。映像というのは音楽的で、感情の根底に触れる力があると。

「民族・共同体を表現するような存在としての芸術」は、同時期にミュシャがスラブ叙事詩で行っていたことでもあり、ミュシャは当時の最先端なメディアであった大衆向けのポスターから、あえて壁画へ回帰していったことをあわせて考えると興味深いです。他にメキシコの壁画運動もありますね。

「民族・共同体を表現するような存在としての映像」は、すぐにナチスによるオリンピックの映像などで実証され、ハリウッド映画やフットボールの中継、911のビル崩壊の映像など、現代の状況にもつながっているように感じます。

また、透過光と反射光の違いが、人の感情移入の仕方に与える影響も考えていたようです。

透過光 情緒的
反射光 理性的

映像の感情移入効果を意識していながら、自ら作った作品は、抽象的な図形を組み合わせたものでした。これは、意図的に感情移入できる映像表現を嫌ったのか、あるいは、シュレンマーやカンディンスキーなどの影響を受けていたせいなのかは謎です。

色彩療法への関心も示すなど、心理的・神秘的な色光作用の追求、光線照射の心身への影響というように、色光という素材と、その心理的な効果について研究していくという考え方が、この時代の空気を感じますし、バウハウスらしいとも感じます。

映像のもつ可能性と危険性の認識、民族・共同体を表現するという問題意識、そしてそれらを心理学的な根拠を求めていくという姿勢。ヒルシュフェルト・マックが関心をもったテーマというのは、人とメディアとの関係、現在のメディアの問題と非常に多く重なってきます。

一回性というものの価値

バウハウスとウルム造形大学は、基礎教育を重視していたことは有名ですが、一方で、その人にしかない「一回性の個性」というものも重視していたとされていたようです。

もちろん、どんなものにも基礎というものはあり、とても重要です。建築であれば、倒れてしまっては、役に立ちません。でも、基礎の範囲を広げてしまうと、個性を束縛する方向に向かってしまいがちです。その間でバランスをとるのは、とてもむずかしいことだと、実感として感じています。

造形にとって、あるいは、それ以外のどんなものでも、基礎は本当に大切ですが、そこに改革が起きるときに、より根本的な部分からの変革であるほど、インパクトの強いものになります。基礎的なこととして、「当たり前」と思っている部分を疑うことにこそ、本当の変革があります。

ぼくは、デザインの本を書いていますが、「これが原則です」「こういうものは間違いです」「こうしなければなりません」「こうしてはいけません」というような表現は、できるだけ避けようとしています。

書籍の企画を話し合うと、編集サイドは「デザインの原則をあげて解説してください」「良い例・悪い例で見せてください」という場合が多いのです。実際、そういう本が多いですよね。決まりごととして、「整列させましょう」というようなデザイン本が多いのです。読者としても、定説になっていること、偉い先生が言ったこと、本に書いてあることを、正しいこととして信じたいという気持ちがあるというのは理解しているのですけど。

ぼくは、実際に揃えて配置してみると、あなたはどういう風に感じますか?揃えて配置することの効果、意味を自分で考えてみて、自分で感じてみてほしいというように進めたいと思っています。そこにこそ「一回性の個性」があるし、「人間が行うべき行為としてのデザイン」があると思っています。

本のなかでは、黄金分割のような世の中的に定説となっているものであっても、鵜呑みにせずに疑ってみるべきと書いているのですが、書評などで、「デザインの基本」みたいなことを書かれることが多くて、正直なところ少しモヤモヤしていたりはするのですが。(でもご紹介いただけることはありがたいです。)

(記事の最後で、こうした考え方で書いたデザイン関連の著作を紹介しています。)

また、もうひとつの問題として、一回性の個性というものは、クリエイターだけに重要なものなのだろうかというものがあります。芸術が、一方通行から循環するものへと変わり、「音楽が成り立つのは聴衆がいるから」というように、受容者が作品を作るのだという考えがでてくるなかで、一回性の個性というものは、すべての人にとって大切なものであるはずです。「クリエイターにとっての一回性の個性の重要性」といったときに、それはむしろ奢りになってしまうのではないか。すべての人にとっての一回性の個性を尊重するとはどういうことなのだろうかと考えてしまいました。「クリエイターにとっての一回性の個性の重要性」というように、言ってしまいがちなんですが、そこに疑問をもつことを忘れてしまうと、人間中心デザインとはあまりいいたくないのですが、「人間が行うべき行為としてのデザイン」「人間が触れるべき存在としてのデザイン」が失われてしまうように思うのです。


デザイン関連の著作

『デザインの教室』
https://www.amazon.co.jp/dp/B01BBBZJIY/

『デザインの授業』
https://www.amazon.co.jp/dp/B01J773BZ2/

『ビジネス教養としてのデザイン』
https://www.amazon.co.jp/dp/B013P0RJT6/


Photo: Tegula from Pixabay

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