見出し画像

弱者は革命を起こさず、身近な人を殺す

 まだ、事件の第一報が入ってきただけですが、

 児童擁護施設で育った犯人が、児童擁護施設の職員を刺殺する

という痛ましい事件が起こったようで、続報を待っているところです。



渋谷区の児童擁護施設、職員死亡


 まだ動機などははっきりわかりませんが、犯人は施設入所経験者であり

「施設職員であれば誰でもよかった」

と話している様子。

 本当にこのセリフを聞いて、何度もおなじようなことが繰り返していますが、

「弱者というのは、いつも本当の敵を知らない」

「弱者はいつも目の前のことしか見えず、弱者同士争う」

ということを感じます。


 児童擁護施設入所者にとっての本当の敵、あるいは自分がそういう境遇に陥った本当の原因は社会体制です。

 しかし、彼らはその社会体制を正すために革命を起こすことは絶対にありません。

 そうではなく、ただ身近にいた支援者や、表面的に厳しいことを言った相手に対して敵意を蓄積します。

 そして、反抗したり、今回のように恨みをはらそうとするのです。


 なぜ、そうしてしまうのかは、もはや問うてもムダなのかもしれません。

 だって、そうしない者は、弱者を抜け出して強者になってゆくのだから。


 このことをもって、現代社会が

「貧困や弱者でさえも自己責任」

と突き放すのは、ある面では理解できなくもない気がします。

 強者として復活を遂げるものは、真の敵を見誤らず、そこに向かってゆくので、弱者のままで恨みを貯めることはないからです。


=========


 ヨシイエ自身は、教育界に身をおいていたので、できれば教育という外部からの注力によって、

「弱者が強者になれるための技術や理念」

を提供しようといつも思っていました。

 しかし、現実論としては、結局

「強者は強者であって貪欲に強者になる理念を吸収し、弱者は最初から最後までそれを放棄するか、それを認めない」

という問題にも直面したわけです。


 となると、かつての高度成長の日本のように、

「社会における強者・弱者があまり明白にバレないで、まろやかに強者が稼いだ経済発展を弱者も自然なトリクルダウンで享受できる社会」

のほうが幸せなのかもしれないな、と言う気もします。これは本当に難しいです。

 弱者が、はっきりと自己責任を目の前に突きつけられないような、自分は弱者であることに気付かない社会のほうが、幸せなのかもしれません。

 山田洋次監督の「学校Ⅱ」という映画に

「ユウヤは自分がバカだって知らないんだろ?僕ももっとバカだったらよかった。みんなが自分のことをバカにしているのが分かるんだよ!」

というセリフが出てきますが、いつもその場面を思い出します。

 そして、その時に言う「みんな」は、安定した暮らしをしながら、高いマンションに住んだり、高級外車を乗り回している人たちではなく、

「自分の身の回りの人」

でしかないからさらに始末に負えないのです。

 人間は悲しい生き物ですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?