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私(屋台)と公(パブリック)

 先日の私と公の境について考えるというイベント(まちがたり)に参加してた時に「道路族」という単語を教えてもらいました。簡単にいうと道路で騒いでいる人や遊んでいる人に注意喚起を促している人たちが、マナーがないと思う人達のことを 「道路族」と名前をつけて呼んでいるのです。

 サイト内には事故物件サイト「大島てる」のように、問題のある道路をマッピングしているページなどもあります。これについて私は日常の不満をネットに書き込むだけというものになっていてあまり建設的とは思いませんでした。しかし、それでも苦しんでいる思いをしている人がいるというのは事実ですし、考えなくてはいけない問題だと思いました。

 極論は除くとしても正直、私は「道路などを使って楽しんでいる人」と「道路などの騒音で苦しんでいる人」の両方が満足する答えは出ないのではないかと思っています。

 だってどちらにも言い分はあるし、さまざまな背景がある中で正しさなんて誰にも決まられない、正解は存在しないと思います。ただできるのは互いのことを考え、思いやりながら少しずつでも譲り合い、いい塩梅を見つけていくことだと思います。

 しかし、私が少し変な感じがするのは、「昔はそんなことがなかった」「昔はおおらかだった」という昔はよかった的な考え方です。

 確かに騒音などの問題の解決に方法には地域に属しているか否かというものがあります。地域同士の付き合いがあり、顔なじみであれば、お互いに譲り合うことができるというものです。確かにそれが問題なくできればよいのですが、その行き過ぎた結果が村八分などの旧来的なムラ社会を作っているということを忘れないでほしいのです。

 ムラ社会というものはまだ、重機などが充実していない時代に地域住民で協力をしなくては生活がままならないなかで団結をして生まれたモノという認識があります。確かにこれで生まれてきた良い文化も多くあったと思いますが同時に、どこに言っても噂を立てられるとかよくわからない会合に参加をしなくてはいけないというような、「ムラに監視をされる」という問題も生まれてきます。
 特に新しい住民が引っ越してきた時などはそれが顕著に現れます。いままでムラのなかで守られてきた塩梅を崩してくれるなという集団的な防衛本能によって。

 こういうことを言うと安易に、昔はよかった的な考え方に違和感をもつ私の考えが分かってもらえるのではないでしょうか。特に都会のほとんどはマンションやアパート暮らしで、生まれ育った土地ではなく、立地などを考慮して移り住んでいる人がほとんどです。そのような環境下では隣が誰だか分からない、そもそも知られたくない、と思う人は一定数いるはずでし、そのなかで旧来のムラ的な考え方を推し進めることに無理があると思うのです。

 ではどうすればいいのか。それは私にもわかりません。それでも私は屋台を運営する身として、屋台に入ってこない九割以上の人たちに向けて
「入るまでではないけど、変なことはやっていないな」
「まあアレくらいなら見逃してやるか」
「なにをやっているんだろうな」
というように
影響される訳ではないですが、来ない人たちにこそ配慮をする屋台でありたいと思っています。

 みんなに好かれることなんてできないのですから、少なくともストレスにならない程度の存在で、もしなにかあったときに寄ってみようかと思わせるようなものでありたいです。

 興味関心のない人も、必ず触れなくてはいけないものが公の楽しさでもあり、難しさでもあるように私は思っています。

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