見出し画像

日本の第一次世界大戦参戦と対独戦を考える 飯倉 章

なぜそこまでして、日本は参戦したのか?
当時、中国大陸の山東省青島(チンタオ)はドイツ領であったが、日英同盟を結んでいたイギリスの要請から、日本は青島に進軍、世界大戦に自ら身を投じることになる。
政治外交史だけでなく軍事史からの分析も多様し、第一次世界大戦前後の日本を取り巻く情勢をコンパクトにまとめた概説書。お薦めの一冊です。

 子どもの頃に観た映画に、『青島チンタオ要塞爆撃命令』(一九六三年)がある。第一次世界大戦の青島の戦いに加わった、黎明れいめい期の日本海軍航空隊を描いた冒険活劇であった。映画のラスト近くでは敵ドイツ軍の砲弾が降り注ぐなか、陸軍が日露戦争の第一回旅順りょじゅん総攻撃を思わせる勇ましい突撃を敢行する。悲惨な戦いの様子が記憶に刻まれたが、史実では日本軍は慎重に壕を掘って敵堡塁ほうるいに肉薄し、夜襲でいくつかを陥落させ、ドイツ軍は朝には砲弾も撃ち尽くし降伏していた。事実と、映画に基づく歴史的記憶には、随分と差があった。

 第一次世界大戦の概説書を何冊か世に出し、いつか日本の参戦とその後のドイツとの青島の戦いやドイツ領南洋群島占領について書いてみたいと思うようになった。このたび、歴史文化ライブラリーに拙著『第一次世界大戦と日本参戦―揺らぐ日英同盟と日独の攻防―』を上梓することができ、とても喜ばしく思っている。

 拙著を書き進めながら、改めて歴史を書くことの難しさを痛感した。恩師の都築忠七先生(イギリス社会思想史)は、「ヒストリーはストーリー」とよく口にされた。無味乾燥な事実の羅列ではなく、歴史のストーリー性を意識するようにという意味であったろう。一方で都築先生とその著作を共訳したことのあるイギリスの歴史学者ルイス・ネイミアは、あるエッセイにこんなことを書いている。人々(歴史家とは限らないが)は「実際には歴史を論じたり書くとき、自らの経験によって歴史を想像し、未来を推測するときには過去の類似すると推定した事柄から引用している。二重の反復を経て、ついに人々は過去を想像し、未来を思い出してしまう」。E・H・カー『歴史とは何か』では、ネイミアの言葉として「歴史家は過去を想像し、未来を想起する」(清水幾太郎訳)と切り取って引用され、それが歴史家の使命と思う人もいるようであるが、少なくとも強烈な皮肉屋のネイミアは、そうは思っていなかったろう。未来を過去の類似例から推測するのは時には危なっかしい。映画『青島要塞爆撃命令』の制作者にしても、総攻撃シーンを日露戦争の激戦という過去から類推したように思える。また、自らの経験によって歴史を想像するというのは、一つ間違えば歴史の捏造につながりかねない。筆が滑って歴史を想像しがちな私には、むしろ戒めの言葉である。

 第一次世界大戦当時も、「歴史を想像」しがちな人物がいた。「青島の鳥親分」ことプリューショウ中尉である。映画では機関銃手を載せたドイツ軍機と日本海軍航空隊の空中戦シーンがあるが、現実にはドイツ軍機は操縦士だけで機関銃も搭載していなかった。その操縦士のモデルがプリューショウで、映画の総攻撃時の空中戦では、被弾して煙を上げてゆっくりと墜落していく。けれど中尉は総攻撃の前日、愛機で一人青島を脱出していた。上海からアメリカに渡ってドイツに戻ろうとしたが、連合国側に捕まりイギリス本土の捕虜収容所に入れられる。ところが脱走に成功してドイツに帰還し、その回顧録は戦時ドイツのベストセラーとなった。冒険譚としてはなかなか面白いが、青島戦の爆撃で「三〇名の黄色人種[日本兵のこと]を冥界に送り届けた」とか、ピストルで日本軍機を撃墜したとかいう記述は、いずれも事実ではない。ただ中尉の偵察に基づく砲撃で日英軍が苦しめられたことは、当時の日独の史料でも確認できるし、彼の回顧録がドイツ人の青島攻防戦の歴史的記憶を形づくったことは無視できない。

著書『第一次世界大戦と日本参戦』の書影

 拙著ではこのような印象的・象徴的なエピソードも盛り込んだが、基本的には日本の対独参戦過程を政治外交史として描き、その後の青島をめぐる日独攻防戦や南洋群島占領を、政治外交史のみならず軍事史としても描こうとした。対独参戦とその後の戦いについて取り上げた著作の代表は、斎藤聖二氏の詳細かつ優れた研究書『日独青島戦争』(ゆまに書房、二〇〇一年)であり、平間洋一氏の『第一次世界大戦と日本海軍』(慶應義塾大学出版会、一九九八年)も南洋群島占領や日米関係を含む国際関係について詳しい。海外に目を転じると、ドイツでは注目されているとはいえないが、アメリカの軍事史家チャールズ・B・バーディック(Burdick)氏の研究書The Japanese siege of Tsingtau(日本軍青島攻囲戦:一九七六年)では、日英とドイツの双方からこの戦いを描いており秀逸である。拙著の執筆に当たっては、これらの専門書をはじめ内外の研究を大いに参照し、また当時の内外の史料(外交文書・戦史・著述・新聞・雑誌・日記)も渉猟した。

 ひとつ強調させていただけば、日本においてはこのテーマに絞り、一般読者を対象とした啓蒙的で手頃な著作がこれまでにはなかった。その点に本書刊行の第一の意義があると考えている。

 また拙著では政治外交史として、七月危機と呼ばれる第一次世界大戦の開戦過程における日本外交への各国の働きかけの様相を、欧米の研究とリンクさせて考察した。オーストリア大使は加藤外相に早いうちから自国の部分動員を伝え、対露戦を意味する総動員でないことを印象づけていた。フランス政府高官は早い段階でヨーロッパ列強間の大戦へのエスカレーションを駐仏日本大使に伝えていたが、それは多分に自国に都合のよい情報であった。ロシアは日本の対独参戦を望み、イギリス外相グレイに日本のやる気を削がないよう警告していた。一方、ドイツは奇妙なほどの楽観に支配されていて、当初は極東で日本が対独参戦するとは思いもせず、日本に対露参戦を促したいと考えていた。

 外交史でちょっとしたミステリーとされるのは、何度も変わった同盟国イギリスの政策、とくにグレイ外相の対応である。周知のように、対独開戦してからイギリスは、中国近海でのドイツ武装商船巡洋艦(仮装巡洋艦)の索敵・撃破を依頼し、日本の参戦を容認した。けれど日本がドイツ膠州湾こうしゅうわん租借地の攻撃・獲得を意図する、グレイの依頼範囲を超える対独開戦を推し進めようとすると、すぐに日本の軍事行動に待ったをかけ、さらには元々の依頼まで取り消してしまう。ところがグレイはその翌日、まさかの日本参戦容認に転じる。拙著ではそのあたりのグレイの変心(政策転換)の理由を、ランシング(アメリカ国務省顧問)やチャーチル海相らの動きから解き明かした。

 謎は他にもある。ひとつは日英外相が参戦理由とした、日付もはっきりしない駐日ドイツ大使の過激な言動だが、これは両外相に口実として利用されたと思われる。また南洋群島占領過程で生じたヤップ島引き渡し問題で、オーストラリアがヤップとそれ以外の島々までなぜ占領しようとしたかという点も、単なる錯誤ではなかった可能性を指摘した。

 そもそも一番の謎は、なぜ日本がそこまでして参戦したかであるが、これはいくつかの理由を挙げて検討した。満蒙権益確保のための対中国交渉の材料という説が有力で、それはそれで否定しないが、交渉材料としてうまく使えたかは疑問に思える。

 軍事史としては、青島の日独攻防戦の実相をドイツ側の見方も含めて検討した。日本軍は砲撃で物量を投じ「合理的な戦い」をしたとされるが、これはドイツ軍にならった戦い方であった。また双方の犠牲者は少なくて済んだが、それはドイツ軍が要塞を突破された時点で降伏し捕虜となったためであった。思うにこの戦いは、抵抗手段を尽くした後であれば捕虜となってもよいという西洋流の考えを、日本軍が学ぶ機会にもなりえた。交戦国間で少なくとも六九〇万名が捕虜となった大戦から、このことを学べなかったことは、後の日本軍の歴史を考えると残念である。

(いいくら あきら・城西国際大学教授) 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?