日本語作品集

*鄭芝溶が直接日本語で書いて『近代風景』に発表した詩とエッセイを収録しました。ただし、本文中に全文を引用した作品は入っていません。

また、韓国の民音社から出された鄭芝溶全集には「ふるさと」という日本語詩が収録されていましたが、これは韓国語の詩「故郷」を金素雲が翻訳したもので、芝溶が日本語で書いたものではありません(現在の版に入っているかどうかは未確認です)。


  海

O[お]-O-O-O-O といつてかかると
O-O-O-O-O とよつてくる。

ゆうべ微睡[まどろみ]のうち初雷[はつかみなり]を聴いた。
けさは海が葡萄いろにふくらんでゐる。

ざぶ  ざぶ  ざぶ  ざぶ  ざぶ
浪の間に僕は燕のやうに踊る。
   *
蟹をまねてよこさまに匍ひ歩く。

はてしなき青空の下
いちめんに砂が晴れてゐる。
(『近代風景』一九二七年一月)

  海

こちらをむいてくるひとは
なんとなくなつかしさうなひと。
わかりさうなすがたのひと。
だんだんまぢかになると
まるつきりみもしらぬひと。
ぼくはそつぽをむいてすなをまく。
(『近代風景』一九二七年二月)

  海

しめつぽい浪のねをせおつて一人で帰る。
どこかで何物のかが泣きくづれるやうなけはひ。

ふりむけば遠い灯台が ぱち ぱち と瞬く。
鴎が ぎい ぎい 雨を呼んで斜[すぢか]ひに飛ぶ。

泣きくづれてゐるものは灯台でも鴎でもない。
どこかに落された小さい悲しいもののひとつ。
(『近代風景』一九二七年二月)

  悲しき印像画

西瓜の香りする
しめつぽい初夏[はつなつ]の夕暮れ――

とほき海岸通りの
ぽぷらの並樹路に沿へる
電灯の数。数。
泳ぎ出でしがごと
瞬きかがやくなり。

憂欝にひびき渡る
築港の汽笛。汽笛。
異国情調[エキゾテイツク]にはためく
税関の旗。旗。

せめんと敷石の人道側に
かるがる動くま白き洋装の点景。
そは流るる失望の風景にして
空しくおらんぢゆの皮を噛る悲しみなり。

ああ 愛利施[エリシ]・黄[フワン]!
彼の女は上海に行く……
(『近代風景』一九二七年三月)

  金ぼたんの哀唱

船欄干によりかかり口笛を飛ばしてゐる。
黒い背なかに八月の太陽がしみこむ。

金ぼたんいつつのほこらしさ、はてはやるせなさ、
アリラランの唄でも憶ひうたはう、そのかみの。

アリラランの唄も忘れかけてゐる、いまははた、
金ぼたんいつつをまきちらして帰らう、青い海原に。

煙草もすへない、雄鶏[をんどり]のやうな、遠い恋を
ひとり薫らしてゐる、ほろ酔ひゆれゆれて。

原注:アリラランの唄=朝鮮の民謠
(『近代風景』1927年3月)

  湖面

たなごころを うつ 音
晴れやかに 渡りゆく。

そのあとを白鳥がすべる。
(『近代風景』1927年3月)

  雪

雪の中をかきちらして
紅い木の実がでてきた。
指さきが幸福さうに氷つてゐる。                   口にあてて、
ほうほうと息を吹く。
(『近代風景』1927年3月)

  初春の朝

珍しい小鳥の鳴くねがもれてくる。
しなやかな時計に打たれたやうだ。
心が こまごまの予感に分かれた。
水銀玉のごとく ころがつてゐる。
僕は寝床より起きようとはしない。
   *
小鳥とも ものが言へさうだ。
鋭敏でおだやかな心持がはばたく。
小鳥と僕との国際語[エスペラント]は口笛である。
小鳥よ。日ねもすそこらで鳴いてくれよ。
今朝は若げな象のやうにさびしい。
   *
山の むこうのへんの横顔[プロフイール]
石竹花色[ぴんくいろ]にあからんでゐる。
くつきりと そびえ立つ
神神しき石英層の大柱[おほばしら]だ。
肝臓色の太陽が うららにゆれる
朝の空を いつきに支へてゐる。
春が帯のごとく ひとめぐりめぐつて
そよ そよと 吹いてくる。
小鳥も ひよろ ひよろと吹かれて来た。
(「初春の朝」『近代風景』一九二七年四月)

  春三月の作文

 僕は山の美の擁護者たるには古典的な奥ゆかしさをかけてゐるのでケーブルが出来て、いいものか、悪いものか決める事が出来なかつた。
 女性的な山──だといふ。それで僕もしなやかで優しい山を感じ慕うてゐる。
 日本の伝統を象徴する山──だといふ。すべて東方の古へに憧憬れる心でこの山を敬愛する。
 傷つけられる山のために慨嘆して止まない人人の気持も、いつか自分に移つてきたやうな気がして、いよいよ山のために悲しむ一人になつてしまつた。
 山の歴史を説明して貰ふ。山の歌人や法師のことを教へられる。木魚や鐘の音の奥義を聞かされる。
 僕がポール・クローデルの詩が好きになつたりラフカデイオ・ヘルンの態度にもなりすましこむ時はかういふ時である。
 早やう山が癒ればいいな。山は痛くあるだらう。
 あの長く引ぱつた憎く白い所を見せるのは残忍なことである。
 木を沢山植ゑてあそこをかくしてやれば好い。山の傷(一字判読不能、引用者)綠色で癒される。
 漱石さんが生きのびてゐられても、もうあゝいふ悠々たる山の紀行は書けなくなるかも知らない。
 見よ。蜥蜴のやうな怪物が山のてつぺんまで一息に上がつたり下りたりしてゐるではないか。
 山の朝ぼらけに顔を正すために、山の夕焼けに浴びるために、この怪物の腸[はらわた]から幾度も運ばれたことがある。
 これは不思議な童謠だ。
 夜の更けた時、遥か頂上で僕の時計は悲しくも整調に廻つてゐた。銀の蟋蟀のやうに、かちかち 山頂の夜を噛んでゐた。風が矢のやうに流れていた。
 さうだ。海抜三千呎の頂上で僕は借金の証文を否認する。でも時計の廻らぬやうな頂上はあるまい。ここでも星は遠く歌はねばならぬのか。
 これは不思議な童謠だ。
 僕は山のためにもう憤慨しなくてもいい。
    *
 年取つた雌鶏の格好を可笑しいと思はぬか。どう見ても繊細な想像や情緒で動くやうには思はれない。しりつぽの不風流といつたら、さながら肥満した老婦人のスカアトを拡げたさまである。首[くび]のふり方も、コッコッ と鳴く音も、艶々しい所は一つもない。あの歩く風采といつたら悲しい女性の運命のやうなものである。僕は年取つた雌鶏の後ろを見送つてゐるうちに途方もないサンチマンタルを働かすことがある。
 けれども春三月になつてから可愛いゝひよこの群れを懐[かゝ]へた姿を見給へ。若いお母さんになつてるではないか。例のしりつぽも母性の調和がとれて少しも軽べつの念が出られる所か、すべて保護と愛が払はれるだらう。
 姉さま、私達もやがて格好が悪くなりますよ。
 可愛いゝ赤ちやんを早やう儲けなさいね。トマトのやうな兎のやうな赤ちやんを。
   *
 姉さまは僕の信心深くないことを非難する。
 孔雀が羽を拡げるやうな僕の詩情を、イムポライットな振舞ひを非難する。深刻さと思慮と上品さを要求せられる度に軽い血が上の方に流れるのを感じる。
 姉さま。僕は哲学や宗教や品行の以前──少くとも野蛮な状態。紫色の時代にゐるのであります。私達は慎重である前に先づ如何にして空気の中で自由であり得るか、稀れに出食はされるビーフティックの切れが如何に物足らぬものであるかが問題であります。
 ややもすれば演説に脱線する折、姉さまよりお祈りを強ひられる。あの額の大理石色の緊張さと不思議にも神性で朗朗たるお祈りの声で僕はいよいよ小さい悪魔にされる。
 神さま。姉さま。僕は決して悪い人ではありません。
                (『近代風景』一九二七年四月)

  甲板の上

垂れさがつてゐる空は白金色[ぷらちな]にかがやき
波は玻璃板のやうにくだけつつ、ふつとうする。
まるまると滑りこむ潮風に頬頬は充血し
船ははでやかな家畜のやうに吠えて走る。
ふいとあらはれた黒い海賊[ぱいれいと]の島が
飛びさからふ鴎の羽影にゆらゆらとしりぞく。
どちらを見まはしても白い大きい腕組ぐみに囲[かこ]まれ
地球がまんまるいといふことが楽しまれる嬉しさ!           私達は ネツクタイ を飛ばしながら
小学生のやうにこころを躍らせ寄りそひ立つ。
私達の甲板の上の眺望は水平線の彼方へと旗をふる。
   *
潮風がそなたの髪にたはむれる。
そなたのかみは悲しみ甘える。

潮風がそなたのすかあとにたはむれる。
そなたのすかあとは羞ぢらひふくらむ。

そなたは 風 を叱る。
      (『近代風景』一九二七年六月)

  まひる

しんに さびしい
ひるが きたね。

ちいさい をんなのこよ。
まぼろしの
ふえまめを ふいてくれない?

ふえまめふく ゆびさきに
あをーい ひが ともる。
そのままにして きえる。

さびしいね。
    (『近代風景』一九二七年七月)

  遠いレール

白金の坩堝のやうな、
六月の太陽の下。
きらきら ひかつてゐる、
遠いレールを見る。
地に長長しく匍へる、
ふしぎな動物のやうな、
レールを見てゐる。
赭土一面の野つぱら、
まひるの さみしさと、
食慾が ほのぼの燃えてゐる。
(『近代風景』一九二七年七月)

  夜半

ものは みな しづしづ と、
おほきな 夜と ともに 流れゆく。

屋根うへの   月も   西へ西へと 流れゆく。

のきさきに 枝ぶりを はつてゐる、
蜜柑の樹も 流れる。

海に向ふ さびしい顔の やうに、
灯[あかり]も こころも、
川原に 水鳥の巣も みなみな 流れゆく。

私も 眠りながら 流されながら、
この硝子窓のへやで 船を 夢みる。
(『近代風景』一九二七年七月)

  耳

だんだん びんぼうに なりはて
みみ ばかりが おほきく なつた。
あだかも むちやな ひとの
せつぷんの あとの やう。
きょねんの しもやけが
また あからみ だす。
   (『近代風景』一九二七年七月)

  帰り路

石ころを けつて あるく。
むしやくしやした 心で、
石ころを けつて あるく。
すさまじき 口論の のち、
腹が へつて 帰り路の、
かんしやくだまが、
氷つた つまさきで 嘶く。
   (『近代風景』一九二七年七月)

  郷愁の青馬車

痩せこけた川原のせせらぎが砂利のうへをころがる。
それでもすこやかな勢ひで ちよろ ちよろところがつてゆく。
私は ぎょうさんな 白い小魚がほしい。
小魚がすばやく指の間をすべりぬける。

銀いろ!
十月初旬の空気が ちらつと ひかる。
私の近眼もずいぶん きつうなつたな。
近眼がまぶしい 川原はうねうねして近眼が悲しい。
小魚をつかまへるのが楽みではない。
なかなかつかまへられぬこの手がわるい。
この手は小魚 銀貨 恋のやうなものが どうもつかみにくい。
つかまへられたものすら離してしまふ。
知らんふりをして離すと尾をひからして逃げる。
私の籠はいつも からつぽだ。
からつぽな籠をさげて日は暮れる。
おらんぢゆ色の日が暮れる。
ひろびろとしていちめんに すすきが白い。
風は郷愁[のすたるぢや]の青馬車 秋の鈴をふりふりまわる。
           (『近代風景』一九二七年十月)

  

君は
人魚をつかまへて
嫁さんにすることができるか?

こんな月の蒼白い晩には
なま温い海の中へ
旅行もできるね。

君は
硝子のやうな幽霊になつて
骨ばかり見せることができるか?

こんな月の蒼白い晩には
風船だまに乗り
花粉の飛ぶような空へ
ふはふは登ることもできるね。

だあれも居ない木蔭のなか
一人 笛と語る。
   (『近代風景』一九二七年十月)

  真紅な汽関車

のろ のろ あるくと
恋を おぼえ やすいから
子供よ。   駆けてゆこう。
ほっぺたの 可愛い火が
とくに きえると どう する?
いつさんに はしつて ゆこう。
風は  ひゆう ひゆう と 吹きすさみ
雪は ちり ちり と 小魚の口を
さそふ 餌[えさ]の やうだ。
子供よ。  なんにも しらない
真紅な汽関車のやうに走つてゆこう。
   (『近代風景』一九二七年十二月)


  橋の上

はなやかな 街
金魚池のやう きらびやかな
夜の街を 通りぬけた。

ひとけ さみしき
橋べに かかつた 時
あしの 下 では
ちよろ ちよろろ せせらぎ
しとやかな 夜話しに ふけてゐる。

たよりない 頬ぺたの
おきばを さがしたさに
欄干[らんかん]に すらして
石を 嗅いで ゐる。
   (『近代風景』1927年12月)

  旅の朝

水が つめたい。
秋より 冬にかけ
手にしみて しみじみ つめたい。
ほとばしり いづる 炎のごとき しづく……
喉ぶえの ほがらかさよ、
百舌の鳴きまねも できる。
ほんのりと はりつまる あか膚こころ、
あざやかな 野菊の哀愁に ただよふ。
遥か とうき 山脈[やまなみ]
うすむらさきに そめられ、
わが あし いと
かるやかさを おぼえる。
   (『近代風景』1928年2月)