二、『近代風景』


 しかし、芝溶が詩人として認められたのは、何と言っても『近代風景』に「かっふえ・ふらんす」が掲載されたことがきっかけです。その数ヵ月後、芝溶は『近代風景』に送った文章の中で、白秋に対する尊敬の気持ちを次のように表現しています。(『近代風景』の投稿作品および散文は、すべて芝溶が日本語で書いたものです)。

 編輯部のOさんに。

 冒険のつもりで出して見ましたが、それが、白秋さんのお眼にとまつたやうでした。
 自分の書いたものが綺れいに組まれた活字の香りは恋と皮膚のやうなものでした。
 じつに嬉しうございました。
 白秋さんにお手紙を上げなければならないのですけれども、かういふ、種類の手紙は、灯籠に慕ひよる七月の群蛾のやうにおびただしく舞ひこむことでございませう。
 そして淋しく黙さつされうこともあるでせう。
 お手紙は遠慮致しますから、さういふ、心持もお察して下さい。
 ただ、無口と遠慕で東洋風に私淑させて頂きませう。

  悲しい貝殻が輝かしい水平線を夢みる。

 詩と師は私の遠い水平線でありました。
 何にか詩の時評みたいなものを書くやうにと言はれましたが私はまだ論ずることはできません。いきなり詩人になって、いきなり論ずるやうなことは、いきなり顔が膨張することでせう。今に皆喰つてしまふほどのすばらしいことが言ひたいのですけれども、それが、血の昇りがちな二十年代の激情の為めに青い気焔にしかなりません。
 青い気焔はこらえてゐませう。
 日本の笛でもお借りして稽古致しませう。
 私はどうも笛吹きになりさうです。
 恋も哲学も民衆も国際問題も笛で吹けばいいなと思ひます。
 党派と群衆、宣言と結社の詩壇は恐しい。
 笛。笛。笛吹きは、何処でも、何時でも、居るものでせう。さよなら。
(「手紙一つ」、『近代風景』一九二七年三月号。「日本の笛」に傍点)

 「編集部のOさん」とは、白秋の弟子であり、『近代風景』の編集にたずさわっていた詩人の大木篤夫(惇夫)であると思われます。文の内容からすると大木が芝溶に手紙を送り、詩に関する時評を寄稿してくれと注文したのに対して、芝溶がそれに代わるものとして先の文章を送ったようです。「手紙一つ」というタイトルにはなっていますが、実質的には雑誌に掲載されることを意識した随筆でしょう。
 しかし、この一文は他の誰よりもまず、白秋の眼を意識して書かれたに違いありません。芝溶は白秋に手紙を書きたいのだが、もし黙殺されたら自分はひどく傷つくので手紙を送ることすらできないでいる、と告白しています。芝溶は白秋を、文字通り畏怖しています。実際に『近代風景』創刊号で白秋は、「私には詩の教師とか宗匠風の生活をいいとは思へない。で、さうした直接交渉からは離れてゐたいと思う」(「朝は呼ぶ」)と書いていますし、多くの崇拝者に煩わされて自分の時間が持てないから面会日を守ってほしいと、誌面を通じて何度も訴えています。すべての手紙にいちいち返事を書くのは不可能なことでもありました。芝溶もそんな事情を察していたのです。
 「手紙一つ」で芝溶は、遠い水平線に憧れながらも近づけなくて悲しんでいる貝殻のごとく、遠く離れたところで白秋に私淑したいという意志を表明しています。すなわち、彼はこの文章を通して白秋に、私はあなたの弟子だと宣言しているのです。『近代風景』では、先に述べたように作品がひとたび認められれば、「その作者のために責任を持つ」(創刊号「編輯後記」)のですから、芝溶は、白秋が自分を弟子と認めてくれるはずだと思っていました。芝溶は、白秋がこのラブレターのような文章を読んで微笑するだろうと確信しながら書いています。そして白秋は、微笑したでしょう。
 ところで、芝溶がここで見せた羞じらいと謙虚さは尋常ではありません。普段はずけずけとものを言う彼が、白秋の前では、恋人を前にして顔も上げられずに頬を染める純情な乙女のようです。芝溶の普段の性格を金煥泰は、次のように記しています。

彼は、社交の場ではおしゃべり屋だ。他人と一緒にいる時は、雪がうれしくて跳ね回る犬みたいに感情と理知が噴出し、わあわあ騒ぎながら爆笑、冷笑、冗談、該博、警句がひとしきり飛び出す。こんな時、彼は他人の言動と感情にかまう余裕がない。それで我々は彼に感情を無視されることもないではないが、爆竹の連発みたいな燦爛たる彼の談笑に、恍惚として魂を奪われてしまう。
                 (「鄭芝溶論」、一九三八)

 白秋の弟子といえば、岩波文庫の『朝鮮民謠選』、『朝鮮童謠選』で知られる金素雲[キム・ソウン](詩人・翻訳家・随筆家、一九○七~八一)を思い起こす人もいるでしょう。金素雲を日本文壇に紹介したのは白秋でした。芝溶の白秋に対する態度とはまるで対照的に、素雲は、面識のない白秋の邸宅を突然訪れ、風邪で伏せっていた大詩人を無理に起こして翻訳原稿を読んでもらうほど積極的でした。かつて白秋が『近代風景』で芝溶の作品を認めていたという事実が、金素雲を勇気づけてもいたようです。東京で看板屋をしながら糊口をしのいでいた金素雲は、ある晩、日本語に翻訳した朝鮮民謠の原稿を持参して白秋の邸宅を訪れます。弟子達の世話を受けながら病臥していた大詩人は、その原稿を見て「こんな驚くべき詩心が朝鮮にあったとは!」と感嘆し、突然やってきたその無礼な青年を激励しました。その後、白秋は翻訳文にていねいに手を入れ(金素雲は、一字たりとも直してもらったことはない、と書いてもいますが、これはハッタリのようです)、出版社を紹介してやったり、からっぽの懐をはたいて出版記念会を開いてやったり、『朝鮮民謠集』に「一握の花束」という跋文を寄せたりしました。

この朝鮮童・民謠の採集・出版に就いては、並々ならぬ苦労が金君に続いた。初めから知悉していた私にとっては、今や肩の一荷を下したように思う。この韓[から]の青年は当然にその酬わるべきものをこの日本において酬われるであろう。金君の喜びを私も喜びとし得ることを愉快に思う。
(北原白秋「一握の花束」、金素雲 訳・編、『朝鮮童謠選』、岩波書店、一九三三、二五一頁)

 金素雲は、白秋に一生かかっても返せない恩義を受けたと述懐しています。素雲と芝溶が白秋をどれほど尊敬していたのかを表わすエピソードを引用してみましょう。

後日、詩人鄭芝溶が私に語った言葉がある。
「レオナルド・ダ・ビンチになれといわれたら、どうにか真似できそうだが、しかし、北原白秋の真似はできそうにない」(中略)
日本語に新たないのち、新たな息づかいを吹きこんだ詩人――、日本の子供の情緒に新紀元を画した詩人――、貴賎貧富を問わず日本国民の誰ひとりといえども、北原白秋の間接的な恩恵をこうむらない人は恐らくいないだろう。詩であれ短歌であれ、民謠、童謠であれ、いかなる分野でも常に第一人者だった北原白秋は、何世紀に一人出るか出ないかの稀れに見る一民族の宝とも思われた。
ダ・ビンチよりも真似しにくいと言った芝溶の言葉も、そんな意味で私の耳には讃め過ぎに聞こえなかった。
(金素雲「白秋城」、崔博光、上垣外憲一訳『天の涯に生くるとも』、新潮社、一九八三、一二三~一二四頁)

 朝鮮(韓国)近代詩や伝承民謠・童謠の日本語訳が高く評価された素雲に比べれば、日本語の実力において芝溶は素雲の敵ではありません。芝溶の日本語は、たいていちょっと変だし、意味のよく通じない部分もあります。素雲が十代半ばで来日して、(おそらくは日本の文壇で成功しようと)必死に努力したのに比べ、芝溶は二十歳を過ぎて初めて日本留学の途につきました。よっぽど親日的な学校に通ったか、若い時期に日本に来た人でない限り、この年代の朝鮮人が母語と同じように日本語を駆使することはほぼ不可能です(少し後の年代になるとだいぶ事情が変わるでしょう)。もっとも朝鮮語の出版物が少なく、ずっと日本語の本を読んで育って来たので読解力は相当ありました。芝溶はおそらく朝鮮語のなまりで京都アクセントの日本語をけたたましくしゃべっていたでしょう。芝溶の日本語詩には、京都の方言的言い回しが混じって、それがまた妙な魅力になっていたりします。
 日本語に接し始めた時期や環境、学習時間の差、などという外的な条件はともかくとして、芝溶と素雲の日本語に対する態度は根本的に違っています。素雲は日本の文壇で認められたいという思いが、最初からあったのでしょう。素雲の民謠・童謠翻訳の語調は、どう考えても白秋の『まざあぐうす』を真似ているし、白秋が直接手を加えてもいます。素雲の近代詩翻訳には、上田敏の『海潮音』から採用した「とうとうたらり」などという珍妙なフレーズまで登場しますが、これは日本語の高級な表現を模索したあまりの、時代錯誤的失敗です。日本において金素雲は「詩人」という肩書きで紹介されますが(たぶん自分でそう名乗っていたのでしょう)、実は韓国でも金素雲自身の詩は、あまり知られていません。彼は翻訳以外では、随筆家としての業績をむしろ評価されるべきです。
 芝溶も白秋ご愛用の語彙やイメージはある程度採り入れましたが、金素雲のように日本人に負けないぐらい上手に日本語を駆使して、東京で活躍しようという欲はなかったようです。それよりも彼は、白秋が日本の古い言葉や方言、外国語など多様な語彙を発掘して新しい表現を創り出したように、朝鮮語を深く探求して朝鮮語を新しい言語に生まれ変わらせようとしていたのです。かんたんに言えば、素雲の日本語は高級な模倣であり、芝溶の日本語は、朝鮮語を詩的言語にするための参考材料に過ぎませんでした。とはいえ、私は金素雲の業績を低く見るものではありません。現実の素雲は問題の多い人物でしたが、ともかく彼の翻訳ほど当時の日本人の感性に訴えたものは無かったのです。滅びゆくものの美しさ、というオリエンタリズムの枠の中においては。
 先にも述べたように、素雲が白秋に親しく接していたのに対し、芝溶は白秋に会ったことはないようです。しかし白秋三羽烏のうちの一人として知られる大手拓次ですら、手紙での交流を除けば、白秋との実際の付き合いがほとんど無かったということを考えれば、私淑したいという意志を明らかにした芝溶を、広い意味で白秋の弟子と呼んでも誤りではないでしょう。
 ここで白秋と芝溶の詩を比べて具体的に考察してみなければなりませんが、それに先立って、『近代風景』に掲載された芝溶の作品がどう評価されたのかを見てみましょう。
『近代風景』に芝溶の作品が初めて登場したのは第一巻第二号(一九二六年十二月)の「かっふえ・ふらんす」です。それ以後、彼の作品は毎号のように登場します。下の表を見て下さい。

巻、号    発行日         ジャンル      作品タイトル
1-2 一九二六(大正十五)年十二月一日   詩    かっふえ・ふらんす
2-1 一九二七(昭和2)年一月一日      詩       海
2-2 一九二七年二月一日          詩       海
2-2                               詩           海
2-2                散文詩    みなし子の夢
2-3 一九二七年三月一日           詩     悲しき印像画
2-3                                詩    金ぼたんの哀唱
2-3                                     詩       湖面
2-3                  詩       雪
2-3                  散文     手紙一つ
2-4 一九二七年四月一日(散文詩号)    散文詩     幌馬車
2-4                  詩       初春の朝
2-4                                                散文     春三月の作文
2-5 一九二七年六月一日         詩      甲板の上
2-6 一九二七年七月一日         詩       まひる
2-6                  詩      遠いレール
2-6                  詩       夜半
2-6                  詩            耳
2-6                                                  詩       帰り路
2-9 一九二七年十月一日(三人集)           詩          郷愁の青馬車
2-9                  詩        笛
2-9                  詩      酒場の夕日
2-11 一九二七年十二月一日(新人推薦号)   詩           真紅な汽関車
2-11                                             詩            橋の上
3-2 一九二八(昭和三)年二月一日           詩            旅の朝

 これ以外に芝溶について言及したものとしては第二巻第三号で大木篤夫が『近代風景』が発掘した素質のある詩人七人を挙げた中に芝溶の名が入っており、第二巻第五号で、やはり白秋直系の弟子である詩人薮田義雄が「仲村渠、 鄭芝溶 (…)、 此の二人の若い詩人は、 『近代風景』が新に発見した多くの詩人中もつとも光つていると謂へる」と書いています。また第二巻第九号は岡崎清一郎、 鄭芝溶、 仲村渠という新人三人の作品を「三人集」というタイトルのもとに集めていますし、「新人推薦号」と銘打たれた第二巻第十一号では、およそ三千五百篇の投稿があり、その大半が詩であったといいますから、たいへんな競争率をくぐり抜けて作品が選ばれていたことが分かります。第二巻第七号からは作品投稿規定が掲載されなくなりました。新人の作品と思われるものも載っていないようです。しかし「新人推薦号」と銘打たれた第二巻十一号は、多数の新人の作品を集めています。この頃から新人の作品は毎号載せるのではなく、ときどき新人推薦号としてまとめて掲載するように編集方針が変わったようです。
  これから分かるように芝溶は『近代風景』に登場した新人のうちでも注目を集める存在でした。とはいえこの時期、日本国内の名のある雑誌から輩出される新しい詩人は、おそらく年間数十人にのぼったでしょうし、その多くは忘れ去られてしまいました。『近代風景』の編集にも関わった薮田義雄、芝溶と共にクローズアップされた岡崎清一郎、仲村渠、あるいは第二巻第五号で特集された木水弥三郎、府川恵造の作品を覚えている人は、現在ほとんどいないでしょう。芝溶の名が最後に『近代風景』に登場するのは一九二八年二月ですが、雑誌そのものは同年八月まで発行されています。彼が「旅の朝」以後にも投稿していたのか、自ら投稿をやめたのかは明らかではありませんが、この時期、芝溶は宗教に傾倒しており、そのぶん創作意欲が衰えていたと思われます。
 ともかく「日本の笛でもお借りして稽古致しませう。」というからには、日本語による詩作は文学修業のひとつとして試みたものでしょう。少なくとも彼が日本詩壇での活動を目標にしていたとは思えません。芝溶は、ひどく無欲なように見えます。『近代風景』は、本欄に一度紹介したら責任を持つ、と言っているのですから、もし彼が金素雲のように東京に行って白秋と親しくなっていれば、日本詩壇でもっと華やかに活躍できたかも知れません。しかしキリスト教(最初はプロテスタント、のちにカトリック)に夢中になった芝溶は、白秋の雑誌から遠のいてゆきます。いずれにせよ、この無名の異国青年の輝かしい詩才を見抜いて既成詩人の作品と同等の待遇をした白秋は、やはり大人[たいじん]であり炯眼の所有者でした。
芝溶は『近代風景』と同じ時期に京城で発行されていた『学潮』、『新民』、『朝鮮之光』などの朝鮮語の雑誌に作品を発表し、朝鮮においても既にひとかどの詩人として認められていました。一九二九年、彼は華やかな経歴をひっさげて帰国します。そして日本人の名前にまじって異彩を放っていた「鄭芝溶」という三文字は、他の多くの新人詩人の名とともに、日本詩壇から忘れられてゆきました。