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顔を描く


子供は顔を大きく描くという。
自分には子供が居ないし、自分がそうした記憶も無いし、子供に絵を教えたわけでも無い。姪っこだけが例えとなるが、確かに顔を大きく描いていた。
一番顔を観て感じとる。綺麗だなと思ったり、優しいんだなと思ったり、楽しそうだと思って一緒に楽しくなったり、嘘ついてるなと思ったりする。

段々に身体を描くようになるのは…これは私自身のジレンマだったんだけれど、ちゃんと人間を描きたいと願ってのことだ。これはしっかり覚えている。手が短いとか画面のバランスが悪くて収まらないとか…なんでこんなに難しいんだろうと悔しくて。しっかり画面に人間を現したいと願うからであって、
顔を描くこととは別次元のことだった。

実家は母方の家系が絵を学んでいて、母方の祖父は油絵やだるま絵を製作していた。母も美術系を専攻しており、おかげさまで絵に触れる機会は多かった。美術館にもよく行ったし、家族で箱根に行くぞというと、スケッチに行くということだったし、画集がずらりとあって、見放題だった。
だからこそ、なぜ自分が流暢に描けないのか、幼い頃いつも恥ずかしかったし悔しかった。母はいつも綺麗に果物など描いていたので、そういうように描きたいと憧れた。

ただ母の人物画は殆ど見た事がなかった。父を描いた絵があった記憶はあって、横顔のデッサンだったと思う。

今ならよくわかるが、顔を緻密にデッサンすることはその人に入り込むことだ。だから、父を描いたのだろう。

身体を描くことは、創造主が創った骨格や筋肉やその稼働を知る事だ。つまり数学的で宇宙的なことだ。
勿論顔も骨格あってのことだけれど、顔が特別であることは精神性を観て取りやすいこと。宇宙的な面では異次元ポータルなんだと感じる。

私が落描きするのは、所謂漫画のような線画が基本で、
誰でも無い。男でも女でもない。地球人でもない。ストーリーもない。
しかし顔を描いていると、存在すると感じてくる。
静かに微笑んでいて、欲が無い人。
描き終えると目の前に立てかけて、ぼんやりと交流し、どこかホッとする。

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