見出し画像

ニューオーリンズとクレオール文化 Jelly Roll MortonとJazz

ニューオーリンズとクレオール文化

クレオール(Creole)
というのは植民地生まれ、と言った意味だそうです。
ニューオーリンズ(New Orleans)は1718年にジャン=バティスト・ル・モワン・ド・ビエンヴィル(Jean-Baptiste Le Moyne de Bienville)というフランスの植民地活動家により設立されました。
また1722年にフランス領ルイジアナの首府となります。
1763年 イギリス、フランス、スペインにより行われたパリ条約によりスペイン領となりました。
1801年にナポレオンがスペインからルイジアナを取り戻しましたが財政難によりアメリカ合衆国へルイジアナを売りとばす、という歴史をたどっています。
クレオールと言うのはこのフランス統治下におけるフランス人と奴隷であったアフリカン・アメリカンの方々の子孫を指しています。

1819年 コンゴスクエア(Congo Square)では、規制もゆるく、日夜奴隷になったアフリカン・アメリカンの人達のパーティーが行われておりバンブーラ・ダンス (Bamboula Dance)と呼ばれるダンスを踊り続け、樽を2本の棒でたたき続け何かに取りつかれたように踊る人達で溢れていたそうです。
その裏側には娼婦の街としての顔もあり、チャピトゥラス道りとよばれる通りの川沿いに水上娼家がズラリとならび商人や漁師たちが通う場となっていました。

フレンチ・クオーターとストーリー・ヴィルの設立

1897年 不動産業者で市会議員だったシドニー・ストーリー(Sidney Story)が売春の根絶をめざすよりこれらを”管理”したほうが得策と考え、売春は合法ではないが代わりに特定の地区のみ認めるという条例をだしそれが制定されました。

このストーリー議員は予期していなかったとは思うのですがこの議員の名前を取り、フレンチ・クオーター(French Quarter)に隣接する38平方ブロック一帯が「ストーリー・ヴィル(Story Ville)」とよばれるようになりました。
ここでは230近い売春宿、酒場やキャバレー、ダンスホールなどが立ち並び多くの人が行きかいしました。

この時のミュージシャンは売春宿やキャバレーで「プロフェッサー(Professor)」と呼ばれるピアノ弾きの仕事などがありました。
こうしたミュージシャンも指名制で、売春婦を客が選ぶと同時にその雰囲気づくりにピアニストが呼ばれるという仕事でした。

通常50セント~1ドル、がチップで50ドル、60ドルを稼ぐという商売でした。

ミュージシャンは当時モテたようでミュージシャンたちの目指すところはこうした売春婦の「ヒモ」で娼婦たちはそうした男の面倒を見るのが好きだったようです。

また、警察は娼婦よりもこの「ヒモ」を目の敵にしており摘発もよくあったそうで、娼婦の立場からしてもこの「ヒモ」の仕打ちが気に入らなければ警察に通報できるという立場が都合がよかったそうです。

Jelly Roll Morton

ジェリー・ロール・モートン(Jelly Roll Morton)はそのストーリー・ヴィルのなかで「ビッグタイムピンプ(Bigtime-Pimp)」と呼ばれていたヒモ男でした。
※Pimpは蝶々のようなひらひらした、と言った意味です。

ジェリー・ロール・モートンは1885年に生まれ本名はフェルディナント・ラメンテ(Ferdinand LaMenthe)だったと自ら言っていますが実際は1890年フェルディナント・ジョセフ・ラムーシェ(Ferdinand Joseph LaMothe)という名前だったとされています。
誕生日を偽ったのは自分がJazzの創始者である、としたかったジェリー・ロール・モートンは当時バディー・ボールデン(Buddy Bolden)Jazzの創始者であるという説もあり、その説を覆すためのつじつま合わせとして自分の年をそれに合わせて変えた為です。

また、なぜ名前を変えたかと言うと先述の通りニューオーリンズはクレオールと呼ばれるフランス・スペイン人などとアフリカンアメリカンの混在する町で、やはり白人が権力を持っておりました。

彼は名前を変える事により自分のルーツはフランスにあるとしていました。
彼の主張はアフリカン・アメリカン自体もフランスがルーツであるという割ととんでもな主張で、そのルーツの話をでっちあげる事で当時の差別から様々な人々を守ろうとした気配が見受けられます。

Jazzの創始者としてのこだわりのようなものが強かったようでBluesの創始者と言われるW.C.HandyJazzBlues両方の創始者と言ったラジオ局に自ら連絡し自分の1902年にやったことが初めに起きたJazzだ、と激怒したそうです。
ともわれ、彼は元々性格上、自信家でなんでも大きくいう大言壮語癖があったそうです。

6歳でギターを隣人のスペイン人より習い、6歳になるころにはベース、マンドリン、ギターと言う編成のバンドをやっていたそうです。
フレンチ・オペラハウスでピアノの演奏を聴いて以来ピアノをやりたがったそうですが、ピアノは女々しい楽器という印象でバイオリンやドラム、ギターを引き続き行っていました。
10歳になったころにラグタイムをひくピアニストに出会い、こっそりとピアノを練習し始めたそうです。
また葬式の時のコーラス・カルテットに参加したりなど幅広い楽器を倣ったようです。

14歳の時、ジェリー・ロール・モートンはある宿でピアノ弾きがいないと聞き、その腕前でそのままその宿の「プロフェッサー」になります。
彼は最低1ドルの基本給が5ドル、チップも景気がいい時は100ドル程稼ぎかなり羽振りのいい生活をするようになりました。

彼のその当時の「Winin' Boy」というあだ名が付けられ「Winin' Boy Blues」という曲も書いています。


彼は基本的に売春宿でヒモとして暮らし、ピアノの腕前で稼ぎだし、派手な性格でお金を見せびらかしたり卑猥な言葉で即興音楽を作ったりしていたそうです。

ミンストレル・ショー

1908年ジェリー・ロール・モートンはストーリーヴィルから去ります。
※ストーリーヴィル自体は1917年に閉鎖されます。

彼はこうした売春宿での生活から自ら喜劇をやる一座を作り様々な場所へツアーをしていました。
この喜劇はミンストレル・ショー(Minstrel Show)と呼ばれ当時のアフリカン・アメリカンへの差別をそのまま笑いに変えてしまったような喜劇でした。

この当時のアフリカン・アメリカンに対する印象と言うのは頭の回転が遅く、世間知らずで言葉遣いは泥臭く、周りの善意がないと自立できない、間の抜けた人間、そうした印象は当時のアメリカもそうでした。

ミンストレル・ショーというのは元々1840年に始まった漫談有、寸劇有,歌唱ありのショーで、焼いたコルクを顔に塗り、黒人に扮装するといったものでした。
そしてそれらのパフォーマーが演じるのは、前述のそのアフリカン・アメリカンの印象、頭の回転が遅く、世間知らずで言葉遣いは泥臭く、周りの善意がないと自立できない、間の抜けた人間でした。
初期のミンストレル・ショーは白人により演じられていましたが、徐々にアフリカンアメリカンのミュージシャン、エンターテイナーがミンストレル・ショーに出演の機会を見出しました。


焼きコルクで顔を真っ黒に塗り、自分の人種について自虐的に演じてみせると言うものでした。
そのなかにはクーン・ソングが含まれます。
クーンと言うのはニガーよりも更にひどい差別用語で、今だとニガーも禁止された言葉ですが割とこの歌を黒人の人も楽しんでいたようです。
今はプランテーション・ソングに言い換えられています。

最後に喜劇が1幕始まり、ウォークアラウンド(Walk Around)とよばれるダンスで締めくくられるという物が常でした。

※2:00頃より~

このウォークアラウンドは、男女ペアーになり足を空中に投げ出し気取って歩き頭をそらせるなど、ケイクウォーク(Cake Walk)と呼ばれるダンスに発展します。

ケイクウォークの由来は、南北戦争前のプランテーションでぼろきれを工夫し、派手に着飾り、大屋敷のの人々を真似して派手に踊り、最も派手に踊ったペアに白人の主人がケーキを与えた、というのが名前の由来だと言われています。

このケイクウォークの音楽はマーチが最初でしたが、ラグタイムの時代になるとこの音楽がシンコペートするようになります。


ドビュッシーなどもこのミンストレル音楽の影響を受けて「ゴリウォーグのケイクウォーク」という曲を作っていたりします。

1915年ジェリー・ロール・モートンはシカゴへ移動します。
このときモートンはキャバレー「Elite Cafe No2」でマネージャーになります。
そこで「ジェリー・ロール・モートン アンド ヒズ インコンパラブルズ(Jelly Roll Morton & His Incomparables)」を結成し演奏していました。


そして1923年、レッドホットペッパーズ(Red Hot Peppers)というバンドを結成しました。
1926年「Side Walk Blues」という曲を当時アメリカで一番力を持っていたビクタートーキングマシン(Victor Talking Machine Company)でレコーディングしています。

その中にある曲はBlack Bottom StompDead Man Blues.、Smokehouse Bluesなど様々な曲がありました。
また、彼は1928年にNew Yorkに移住しています。
この「Jelly Roll Morton & His Red Hot Peppers」は世界で初めてミュージックプロダクションにライブをブッキングされたバンドだそうです。
また数々のジャズレジェンドを輩出しています。

彼は1930年、ビクターと契約解消しました。
理由は、モートンいわく、会社がインサイダー取引をしており、彼の海賊版を売り始めたからだそうです。
そして、それはVoodooの魔術で呪いにかけられたからそんな事をしてるんだ、と責めたそうです。

契約解消の前までレコーディングを続けていましたが、契約解消後Wachinton D.CBlue Moonと言うお店を開き経営者としてそこでバーテンダーをやっていたようです。
その様を若手がからかいに行った時行ったピアノバトルでは変わらない腕前で若手を黙らせたそうです。

1938年にはJazzとForkの関連性を調査していたアラン・ローマックス(Alan Lomax)という民俗学者に米国会図書館で招かれ数週間の録音し、自分の物語を語りました。
彼の様々な話が残っているのはこの米国会図書館でのこの録音のおかげです。


その三年後の1941年にこの世を去りました。
葬式には彼のバンド仲間数人しかいなかったそうです。

ニューオーリンズのコンゴ・スクエアから発祥したJazzはジェリー・ロール・モートンを通しライブや録音が行われ、その活動を通し様々なミュージシャンやリスナーへJazzという言葉を伝えていきました。
創始者は誰なのか、というと一般的にバディー・ボールデンを指す事が多いですが、自説で自分だと言っていたのがモートンでした。
曖昧なJazz発祥の話ですが、モートンが確実に行ったのはニューオーリンズから発祥したJazzを広めた事、ニューオーリンズから他の場所へ。
彼の痕跡であるシカゴ、ニューヨークへとJazzの流れていくきっかけをつくった事でしょう。

次回はNew Orleans Jazzについて書くつもりです。









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?