⑷実在と存在条件と、真正性および真実とは

山本哲士氏へのインタビュー4:「心的現象論・本論」に関して

ーー青版偽書も全集版も、第一に心的現象論「試行」連載の29号〜74号を、「心的現象論」だと著者本人を無視して「本論」を抜いて勝手に名付けていること、第二に、製作している者が個人で勝手独断で編集していること。第三にその所属組織の規律に反した行動を取っていることは、ともに社員でない外注者であることから来ている。これが共通しています。著者本人と、交通したものではないということです。個人の思い込みだけでしています。そして、第四に、ともに、2008年版=著者本人の容認の発行所である文化科学高等研究院出版局の許諾なしに、そこが創成した原稿および編集構成を無断で盗用しているということ。
違いは、青版は存在条件を満たしていない、全集は存在条件を別に作ってしまったということになるかと思います。
我々なりに関係者から調べたことからはそうなります。
吉本隆明本人は、「心的現象論」は「序説」と「本論」からなると、2008年に決定して単行本化した。これだけなのに、それを内容構成を盗んで無視していることが共通しています。誰が見ても明らかなことです。全集版は、自分がしたことを傍証するために、青版偽書を蒸し返して利用し、2008年の正規本に連続させる小技をさりげなくして、「本論」概念を消し去ることを正当化している。それゆえその後も、執拗に山本バッシングへ転化して、著者本人無視を誤魔化している。ですから、支離滅裂な感情表現がなされている。
なのに、他の場では、それを2008年版発行責任者である山本氏が間違っていると流布した物事が、事実を知らない人たちによって、全集という制度的権威に依存してなされたということです。そこで、全集版へ抗議した我々のアクションが間違いであるかのようにみなされた。
我々がとりあえず矛をおさめたのは、2月の山本さんとS社社長との仲介読書人社長を入れた話し合いで、この両者が事実をちゃんと理解されたと山本氏から報告を受けたからです。しかし、全集編者は、その後山本氏の事実クリアをバッシングするという妄挙にでてるだけではない、本質論を「長編評論」であると捏造する愚行で、自分の誤り、間違いを塗色しているだけだ、という事態です。
明らかに、吉本思想への冒涜です。捨て置けない。ですので、我々は、山本氏へのインタビューを求めました。もうしばし冷静状態になるまで、待ちましょうとおっしゃったので、さらに1か月待ちました。
山本 今回の件で面白い現象だなと身につまされて思ったのは、実在は真実だと頑なに思い込んでいる、実在イデオロギーが信条の誠意であるかのように機能していることです。実在が真実だとされるには、別の回路が存在しうるということ。ここには驚かされました。しかし、冷静に見ると、世の中そればかりしていますね。言った言わない、知らない、記憶にない、とかと。
事実は、もうブログでもYOUTUBEでもはっきり述べていますので、繰り返しません。偽物は、偽絵画と同じように、本物であるかのように作られるのです。ですから、存在条件をきちんと確認しないと、実在するから本物だとはならない。こんなことは、研究者なら当たり前の確認基礎の基本であり、偉大な著者の全集を作る人はいちばん気をつけなばならないことです。個人だけで勝手なことをしてしまうから、編集・監修体制は複数の人が関与してなさねばならないんです。
青版=偽書の場合、組版が校正用に印刷所にわたっていましたから、印刷所ではなく、O個人が自分勝手に先走って作ってしまった。関係者たちが何人もいるのに、一人で実行してしまった。印刷所も困ったと思いますが、その経費を消化するために、またOが勝手に販売したんだと思いますが、それは、のちに当該印刷所によって止められたと思います。ですから、1年もたたずに頒布されていないのではないですか。そこで、終わってることです。
なのに、それをいかにも発見したかのように、全集編者が蒸し返した。これは、S社にもその印刷所にも、迷惑千番なことですよ。何より、著者に無礼です。それが、わからない自己勝手な人物がいるということでしかない。
私は、どんなものであれ、既存組織にへいこらする人ではありませんから、廃棄しろと「指令」しました。契約でも所属でもないですから、そうとしかしようがない。お願いすることではない、「やめろ」という指令です。私は一銭たりとも受け取っていませんから拘束義務もない。それ以上追求しなかったのは、知らない人ではない友人だった人たちですからそれ以上は責めなかった、責めることより、本論をしっかりと作ることの方が大事です。しかし親密性の関係は瓦解しました。
全集編者は、所詮、組織から支払いをもらっているから、組織への指令などあり得ない、と屈折しているんではないですか。皆さんから受けた話から、そう見えます。
その当該印刷所の責任者の方は、S社長と同じように、誠実な方です、専務でした社長ではまだありませんから、間に入ってこの件では苦労されたと思います。黙ってじっとうつむいておられた。Owが死亡した時、連絡が彼から入りましたが、私はもう親密性が崩壊したことによって、いっさい対応はしませんでした。できないですよ。
もう、処理されたことです。Owの冥福を祈るだけです。
偽書だというのは、ISBNから発行所まで、形式を配置しているからで、しかし、注意深くみれば別存在が出版社とは別に配備されているから、変だなとすぐわかりますし、そこで発行所とされている当方は1冊たりとも販売などしていません。購入先もうちではないところになってるでしょ。
何度言ったら、わかるんでしょうね。あまりに粗雑な全体ではないですか。
ここがわかられない、認めようとしないのは、事実が真実化される上で、「間違いを犯した」ことへの真正化authentificationがなされて、信憑性があるかのように信条的に作用するからです。著者名が記述されているからですね。著者本人が認めてもいないのに。海賊版とは違う仕方でなされてます。
ここに、創造者である本人の実在と、その著者名が記された物の実在との間に、存在条件がないのに、物実在があるから存在するんだとされる真正化が、事実ではないものを真実であるかのように作り出すこととしてなされます。著者死後の全集第30巻も、同じそれをやってるんです。しかも、物実在を、偽書の上に立脚させて、本物の実在の無視によってです。ですから、別の実在をたてて、本物を相対化しさらには非真正化しようと躍起になる。それを機能させているのは、著者本人ではなく、全集とされた規範です。著者無視の規範です。真正性は、著作権継承者から委託されたからだ、という制度規範に依拠されます、書籍の内実ではない。それを自分の正当化に悪用しています。悪用だというのは、著者本人の決定無視だからです、著作権継承者にも損害を与えています。だって2008年版で「心的現象論・本論」と確固と実在として生前本人の存在条件を整えてあるのに、無視しているのですから。
そんなときに、プーチンのウクライナ侵攻がなされ、そこでプーチンがなしている自己正当化が、おんなじだと気付かされました。自分の間違いは、全て相手側ウクライナのせいだ、とする論法です。これ、国家という共同性の力を背景に持っているようでいながら、実は個人化された論法でしかないものです。個人妄想を国家行使=共同行使へと正当化する論法です。個人専制主義の仕方です。感情専制主義と私は呼びますが、不遜な態度がその象徴的な現れになります。根拠は間違いだらけですから、正当化は全部相手のせいに転化されます。テロリスト、ファシストは自分なのにウクライナだ、とする論法です。攻め込んだのは自分なのに、ウクライナが侵略してきたんだ、という論法です。自国の兵士が無惨に死んでいくのに、それを国のために奉仕したと名目でたてて、実際は虫けらのように扱っていく。とんでもない仕方なのに、70%の支持を得る、世界秩序とそのカオスの一つをになっている。こんなものが流布する時代になっています。
ーー全集編者の、全てを相手のせいにするのとおんなじですね。自分が間違っているのに、間違いを認めないで、山本さんたちのせいにして、さらに偽りを上乗せしていく。冷静に見れば、山本さんたちは2008年版しか作ってないのははっきりしてます。
山本 ええ、それしか作ってないし、他の物など発行してない。
間違いの真正化が個人化されているのは、感情資本主義が感情専制主義と共存して、情報技術をメディア=媒介にして可能になっているからです。このインタビューもそうですが、情報ウェッブだからできることでしょ、そういう意味で場はおんなじになります、判断は個人へ委ねられるだけになりますね。この相対化の絶対性は、非常に危ういです。一つも多数も、同じ力を発揮します。素人もプロも同列になります。ですから、真正性をどの位置で持つかが問われていくのです。自戒が真に要されますが、とても微妙、デリケートに配置されてしまいます。これは真実の次元とは違います。「個人化された自己性」というのは真実や真理の権力関係から解放されてしまったんですよ。これがネット上の人身攻撃や罵詈雑言として、いわばあたかも意見の自由として解放されてしまっている根拠の一つです。
この個人化された開放は、自分の自分への自己技術として自分をずらすように機能させられていれば健全ですが、他者に関与してその否定や攻撃に使われた時、道を外れます。この違いがわかられなくなっているのを感じます。
ポジティブに見れば、真実化と真正化とのストラッグルではあるのですが、真実化はこの全集編者がなしているように個人勝手の真正化に絡めとられます。だから、刊行責任のS社社長も手がつけられない、となってしまう。しかも社員でもないですからね、組織規範統御ができなくなる。偽書を作った人も同じです。真正性は、物質的マターと非物質的マターとの相互性において自己がどうするかにおいて浮上してきます。
2008年版を製作したとき、私がいちばん注意したのはここです。ですから編集者も数人入っていただいていますし、関係者を総合的に配置し、著者をどうサポートするかへ配慮したのです。膨大な編集制作作業になりますから、完成すると自己所有が起きてしまう、「俺がやったんだ」と。しかし、それは編集ワークとしては容認できない、相対化して総体へ構成していかねばならない、はっきり言いますが、大変な作業ですよ、そうでないと完成できないです。自己陶酔が起きてきますからね。しかし、この陶酔はただ自己疎外が起きていくだけで、それが偽書のOの結末として現れたことであり、全集の編者にも最終的にはそうなります、自己破綻です。ただ、Oの場合は高橋さんたちが作った組版を勝手に使っただけですが、全集版は自分でやり直したと思い込んで行くケースです。絶対にそうはなりません、我々が著者と制作した2008年版は規制的に必然に作用しています。そんなこともわからない編集ワークとはならないんですがね。間違ったことにも、膨大なコストがかかっていますから、認められない、自分の責任になりますから、偽りや間違いのうわのせになっていき、最後に持ちこたえられなくなる。
2月の話し合いは、ちゃんと理性的に、和気藹々となされましたが、S社社長は喧嘩別れしたとされてほしいと、言っていました。妙ですね。しかし、だから、ここまで私は黙ったのですが、上に述べたことが起きているのを氏は統括責任者としてわかっていたからです。3月に、私の事務所に伺うと言っておられましたが、来られない。黙って、私は今日まで待ちましたが、もうダメだなということでインタビューに応じた。出版社の互いの責任者間で、納めようとしたのですが、残念です。別の何か力が作用しているんでしょうね、私にはわからない、知らないことが。外在性からの規制力を受容せざるを得ない物事が・・・しかし、それにはどうすることもできないですね。私は、ただ「本論」概念が、本質論として重要だということを強調するだけです。
ーー私どもに入ってきた話は、吉本家が1億円をS社に出した、だからS社は何もできないで著作権継承側が選択された編者のなすがままになっている、ということです。編者の傲慢さは、そこからきているんではないでしょうか。全集への読者たちの違和感は拡大しています。明らかに偏りが見られるからです。しかも制度的な権威への擦り寄りがはっきりしている。
山本 そうですかね? 私がS社社長から聞かされているのは、反対ですね、吉本家が全集印税収入に多くを頼っておられるから、全集を出し続けると言われていましたが・・・。私は、噂話には関心はない。きちんと調べられた上で話された方がいいですよ、いい加減なデマのようにしか感じないですが・・・・実際を知っておられる方たちがいるのかも知れません。私は、新書版の「心的現象論・本論」の許可をいただきに吉本家に訪れて以来、接していませんので、何も知りません。今回の件で、私は吉本家にお札をもらうようなことはしていませんので、逆に、申し訳ないという気持ちの方が強いですし、しかし、放置はできないと自己責任で事実を明らかにしうることをしています。
私は、うちが出した書の印税を誠実に届ける、それはもう刊行時点で最初にまだ売れてなくても、刊行時に刷り部数分を全額即お支払いすることとしてやってきています。売るのは発行したものの責任ですから、売れずとも支払うべきだと。しかし、印税なるものは、本が売れない状態で、微々たるものですが、2008年版では印税10%という慣行はおかしいと、できるだけ歩合をあげてお支払いさせていただきました。資金投資が500万円あったからです。
その噂話のような、有る事無い事が、拡散されていくのは、全集編集体制がだらしないからで、必然だとは思いますけど・・・・。
何より一人で全集制作など無理です。絶対的に。傲慢すぎる。人身批判ではなく、体制としてです。必然に、不手際や不備が累積していくだけです。出版機能がわかってないとしか言いようがないですね。出版総体の環境がジリ貧になってきていますから、さらにたいへんですよ。特にハードな書の刊行は。私の著書も、1980年ごろは3000部単位でしたが、今は、300〜500部です。しかも数年以上かかかる。損はしていませんが儲けはゼロ状態です。全集は他所から見て単純計算しても損はしていないし、利益になっている。そうでしょ、と言ったなら社長はそうだと言ってましたが、大きな利益にはなってないと思います。つまり、そこは誠実にやっていると思いますが、経済利益が優位的にたてられていることはゆがめませんね。それは、私の出版社の編集方針では絶対にしないことです、だから吉本さんはうちへ共鳴して下さった。
「初期歌謡論」が出たとき、S社から依頼されてそれを読書人にて講演したのですが、全集本を読み直してそれで引用ページなど応援的にしようとしたものの、実に読みにくい。ゆえ、もとの書でするしかなかった。視覚的に全体が入ってこない、字面だけになって領有がダウンしてしまう。行間が空きすぎているからです。読むには感覚作用も大事なんです、だからレイアウトが重要。それ、全集一般に言えるんですが、単行本の重要さをあらためて自覚させられました。その講演内容は読書人へ掲載されました。全集の普及に関して、私は都の図書館でもS社から依頼されて講演しましたが、ちゃんといくつも貢献したんですよ。なのに、「本論」無視が起きたのは、よほどのことが起きているんでしょうね。何もかも、これに関しては異様です。
S社との出会いは、最初の横超忌で、報告を依頼され、話したとき、S社社長が私に声かけしてきた。全集が刊行される前です。もうその頃、私は出版社に愛想が尽きていましたから、あまり近づかなかったのですが、社長は私の家まで訪れられ、その後も何度も神保町で接待されましたが、『吉本隆明と共同幻想論』の分厚い本も依頼されてS社発行で出してます。印税はお断りし、代わりに全集が送られてきていますが、2022年12月にはぶったまげたというのが今回の件です。次の本が送られてきましたが、私は開封もしていません。全集を使うことはないですね。S社の内部経済事情まで、私は知らされていますのに・・・
ーーその横超忌の報告は、S社のHPにも乗っていますね。
山本 ああそうですか、削除されてないんですか。でも、いずれ削除されるでしょ。コピーされておいた方がいいと思いますよ(笑)。社長がテープを起こされて掲載したいと言ってきたので、手は入れたものです。その時も、辺境日本の吉本で・・・なんて西欧主義で語る人がいて、よせやい、ヨーロッパの方が辺境なんだぜ、と私はやった記憶がありますが、本質論最優先の姿勢原則は変わっていません。西欧的なものよりアジア的なものの方がはるかに重要ですし、そこに述語性の本質があります。主語制化された近代言語世界の限界にもうあるのです。ですから吉本言説が重要になっている。
ーー山本さんが、25年以上、吉本さんと付き合われてきた、そして、吉本思想を世界線で配置された、そこへの嫉妬が吉本主義者の人たちにはあるんではないでしょうか。読みで、敵わないという次元です。その嫉妬が、今回、破裂したという感じを受けます。「共同幻想論」の本の読みだって、山本さんのは他の論者とは全然次元が違います。「国つ神」論での神話解読でさえ、共同幻想概念を入れ込んで、吉本さんに記・紀の違いが掌握されていないことのツッコミなど、明らかに吉本思想を生かして限界を先へ可能性として引き出している。そこを、吉本論者たちは了解できていないと感じます。
山本 批判肯定的な手法ですが、それは無理ですよ。なぜかというと、私はメキシコの人類学者ロペス・アウスティンのアステカ神話論を踏襲して、古事記解読をやってます。彼の神話論はレヴィ=ストロースを超えている。これさえ日本ではわかられないでしょ。それを、読まない限りあり得ないことですから。知というのは蓄積継承されて深化されます。逆もありますが、継承の仕方次第です。吉本思想は、そこへ届くんですよ。スペイン語での論理ですから読める人限られるでしょ、英仏独語優先のままの日本です。しかし、アジア的なものの本質は同じなんです。欧米人類学者たちには達せない次元です。場所論でもあります、国家神話と別次元の神話生成です、ナウワ神話です、場所神話です、それは古事記の神話生成と本質的に通底します。アステカ神話は日本書紀と同じ国家神話です。古事記神話と日本書紀神話は、共同幻想の本質が全く違います。神野志さんの文献的指摘を、それでは解読されない次元をさらに幻想論として解析した私の考察です。
批判言説は国家次元に対してなされますが、場所次元は肯定的考察、構造化する構造の力です。この可能条件を見出さなとならない、それが本質論なのです。評論からは出てこない。心的現象でいうと、本論の了解水準における、序説の原生的なものと純粋疎外に関わる<もの>の疎外表出との関係です。ここはシニフィアン次元になりますから、心的現象論の言説に潜んでいることです。そこが、歌謡論・詩学論と重なるところです。まだ、政治思想の批評次元でしか吉本思想を読んでいないんですよ、ほとんどが。あるいは、宇田さんみたいに、シニフィエ次元へ還元してわかったつもりになってしまう。当人にも最初助言を求められたので申しました、そんな近代スキーム次元で吉本思想を矮小化していてはダメだと。でも、一所懸命なされてますから、それ以上申しませんけど、氏も言っているよう、誰も心的現象論を読解できていないですね。私でさえ、真正面からの論述をしていないんですから。いや、もうわかってしまったので、めんどくさい大変な作業になるからです。その先へ私はいってますので、そこの方が私の仕事ですから。
ーー話を戻します。全集の第30巻は、真正な本ではないということです。真実ではある、しかし真正ではない、ということだ。これでいいんでしょうか?
山本 ええ、試行連載の本文を移行しているわけですから、真実です。なんであえてしたのか、身銭稼ぎの自己利益からで、そこに非物質的なマターをつけねばならないこととして、のちの修正部分や赤字入れ原稿の発見をもって、編集マターであるかのような擬制を事実として付け加えます。嘘ではない、真実ですね。しかし、「本論」概念を消滅させた故、著者本人の立場に立てばそれは真正ではないとなります。編者の考えである自分を編集していることへ転倒しています。著者本人の意図ではないどころか、無視です。著者は生き動いているわけですから、30年もたてば変化してきます。しかし、オリジナルなものに立つことがその後の研究には重要なんです。資本論の第1巻、その仏版が一時注目されましたが、刊行では「要綱」はもっと大事になる。古典の力は、そこに潜んでいるからです。「始まり」「初発」はとても意味があるんです。のちに「わかってしまった」とされたことよりも、まだ「わからない」で思考格闘されていたことの方に本質的なものが潜んでいるからです。それを読みとくところに、研究者の享楽さえある。
でも、編者が本文を書き加えているんではない、別の書に転載されたものを勝手に入れ込んだということで、自分編集の自己正当化をなしているだけで、心的現象論自体において、それは真正ではない、ただ注書きすべき付帯事項だということです。これ、私が言っても容認しないでしょうが、他の編者たちが入れば当たり前のことです。だから、解題で、編者は自分勝手なことをいかにも客観であるかのように正当化しています。
川上春雄さんは、そんな横暴なことはしなかった。だから吉本さんから信頼された。全集編者は失格です。はっきりいいます。編集ワークとしてです。それが人身批判的になってしまう主体化を避けて、還元を限界づけてもそう言わざるを得ない。
真正の主張は、自己へ大きく関わりますから、私の真正性の主張も、あたかも私の自己のことであるかのようにされてしまうのですが、著者本人の自己性としてです。
私の自己性をこの点で述べますと、序説も本論も消し去り、15号〜74号を「心的現象論」として構成したいですね。実は全集は、それをやり得たんですよ、その機会になりえた。そうしたなら、拍手喝采しましたけどね。ああ、わかっていると。なのに、知性がないから、わかってないから、真逆のことをしでかした。
だから、資料集として、「試行」の15〜74号を、写真コピーとして「心的現象論」として出しましょうよと、私は呼びかけています。そこには、序説も本論もありませんから、それがオリジナルの存在意味です。あとがきもまえがきなど付帯物は資料として後ろに載せればいい。そこから始めないと、こんな不毛な対立なくならない。32年間の著者の作業自体の原点経緯・経過、過程そのものに立つことです。表記の変化の違いでさえ、意味が出てきます。私は、自分が著者としてでさえ、表記の統一というのが一番嫌いです、文脈で、感覚理性の作用は違うんですから、あるところは漢字で書きたいし、ひらがなで書きたくもなる流れもある。
「序説」が出されてしまったから本論の存在が影を薄めてしまった。著者の意図の結果です。ですので、「序説」と「本論」をまとめた愛蔵版が、著者がいちばんなさりたかったことです。これは、確かなことです。それが著者の自己性の真正性です、そしてかつ真実です。本論である29号〜74号を「心的現象論」だとするのは、完全な間違いです。微塵も容認されることではない。
ーー実在と存在条件の関係について、もっと説明していただけますか。
山本 無意識に、唯物論の概念空間が入り込んでいるのと、また思考に西欧形而上学の次元が粗野に訓練されてしまっているため、わかられなくなっているのだと言えます。実在していないものは、存在していないという安っぽいタダモノ論が横行します。観念は実在規定される、と拡張されます。他方、観念は、「なぜ一体、存在者があるのか、そしてむしろ無があるのではないか?」というハイデガーの問いに顕著な形而上学の次元へ配備され、存在<者>から立てられます。主体・主観です(そうじゃないとハイデガー研究者は言うでしょうが、そこへ円環しています)。
この次元から、実在物は存在とは区別されるべきことが示されています。意識さえ、真正性とは識別されて慰みの実存主義になりますが、主体と客体が識別されて、客体は測定可能、知覚可能なものとして実在するのだとされるわけですが、そこにシニフィエが記号的に入り込んできて付着されますと、実在が存在条件を加味した備えたとされてしまうのです。realityとexistenceとのずれです。「贋物」とはそこに構成されることです。「ない」否定状態にあるものが、「ある」というように擬制される。国家などその典型ですが、「社会」空間もそうですが、理論対象であるものが実在であるかのように作られる。それを暴き出してきたのが吉本思想ですね。しかし、吉本さんは「社会」概念を不用意に一般化してしまいますから、その底にあるものを読み取らねばならない。マルクスは、価値形式の理論対象を作り出した。イギリス資本主義でさえ、実在というより理論対象であって、実在そのものではない。シニフィアンが作用しているのは、この次元です。ここは、逆に、理論効果を生み出してもしまいます。
ハイデガーの存在者は、仮象ー存在ー生成の横軸と当為ー存在ー思考の縦軸の交叉に配置されます。これは存在者という主体をたて、かつ当為と存在を対立的に区分しているんですが、存在者とは一体何かを問うているだけです。存在者と存在の間に、ぽっかり穴が空いています。なのに存在者は存在する、あるんだとなって同着しています。この思考が一般化しているんです。
今回の件で、偽書を実在していると撞着して主張している思考に、顕著に現れましたね。安っぽい唯物論ですが、高度な形而上学を無意識にやっている、emotinal intelligenceです。そこには、対象認識がすっぽり抜け落ちています。ただの実在へと諸関係の生成なしに、実体化されて真実化されます。
私のいう、述語制を排斥してしまう形而上学の基本です。その述語制の生成契機は、ホグレーベがシェリングから一所懸命取り出していますが、吉本思考は述語制の日本語で最初から思考されていますから、そんな西欧的形而上学の穴ぼこには立っていないのです。
この吉本否定をしていながら、吉本従属をしているのが、吉本主義者たちです。本質をつかむものを無だとしているんですよ。この円環的なカラクリは、述語制に立脚しないと見えてこない。幻想まで、実体化してしまう。心的現象は評論だと実定してしまう、などなどが起きてきます。心的内容主義に対峙したとき、心的なものの実在ではない、存在条件を自然疎外から探っていったのです。吉本さんのこの格闘を、無にしてしまう仕方です。書かれたものと著者の実生活とは切り離せ、と最初の文学評論で主張していた意味は、ここに関係します。存在者=実在と存在を混同するなということが、疎外表出の基盤だということですよ。なのに、思想<家>だ、と存在者の存在を吉本さんへ被せるでしょ。人身攻撃にまで拡張して使い始める。思考の貧困だではすませられない事態ですけどね。「あっ贋物なんだ、著者が容認してなかったんだ」、で済むことでしょ、なのに、執拗に主張してきますね。気づきを自分へ認めなくなるのが、思考だ意識なんだとなっちゃうんです。
ーー山本さんが言う、大学知性、大卒知性の蔓延という情況ですね。確かに出版界はそこに侵食されている。
ーーいや、医療界などはもっとでしょ。医者だけが病気を治せると、商売しているだけで患者を見ない。病気さえ見ないどころか、治療して歯や身体をさらに悪化させる。いい医者は医学的治療を極力しない、患者の総体を助けること、自律治癒力をサポートすることです。
ーービジネス界でもそうですよ、儲けばかりで、「なんの効果があるんだ、それは儲かるのか」、でしか考えられなくなっている。
ーー大学の教師たちになろうとする若い人たちも、業績になるかどうかだけでやってます。
ーー教育の現場では、規則ばかりが優先で、子供自体を見なくなってます。
ーー問題に取り組むんではなく、問題が起きないように、問題にならないようにが最優先されて、実際の現場を見ないという状態ですね。現場は、実に明確に論理的かつ情緒的に動いているのに、上司が安っぽい知識でもってそれを押さえ込むように介入してくる。それが指導だと思っている。現場は、何も言わなくなります。
山本 ええ。私も、こんなくだらんことほっとけばいい、と助言されたりします。賢い人は関わらないですね、なんの得にもならないし、害がもたらされるだけだと。その通りなんですが、私はこの個人がどうのではなく、ひしひしと迫っている全体主義的徴候へ対峙しています。哲学者がいちばん最初に弾圧されます、真実の真正表明するからです。フーコーが言ってるパレーシアですね、真実を言うと殺される、殺されても真実を言う。吉本さんだと、ほんとのことを言うと世界が凍りつく、ということ。ご存知のように、私は制度規範とは闘ってきた人ですし、いっさい妥協をそこに対してはしてこなかった、うまく出し抜くことをしてきましたが、それは自己破滅の危うさのギリギリになる。そこで、「ほっといてくれ」という自己技術を貫いてきました。今回、わりと静かなのは、今私が抱えている諸関係の人たちに迷惑がかかるからで、どうしてもそこが大きな比重を、この歳になりますと抱えてしまう。大人になったんではなく、制御が自分ごとではなく、他者に関わるという関係性に置かれてしまっている。これは、しかしとても不自由ですね。
ーーでも、周到に、今回の件では動かれているように見えますが・・・・相手が自分で墓穴を掘っていくように対処されているように感じます。戦略的に設定されていたのですか?
山本 そこを語るのは、多分に誤解を招いてしまうんですが、闘いの基本は我が身は相手と同じ次元へ引きずり落とされること、また自分を守っていてはならない、自分も傷つくか害を被る、比喩的には殺されるということに、ひるんではならないのです。どんな小さなことにも。自分を守ろうとしたときに、もうおかしくなっていきます。この編者がもうそなっているでしょ。このとき、絶対に逃してならないのは本質に立つことです。その上での戦略配置です。